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絵を描くこと・11

2017年 06月24日 22:24 (土)

自分の書く線が信用できないことがある。

電柱や樹木みたいな形が持つ直線さえ書きながら歪んでいて、自分の中で書くべき形が定まっていない。

対象を見ながら書くと形の詳細を確かめながらの動作になるので、どっちつかずで安定しない筆跡になる。

対象の形を見て覚えてから書いてみると、予め備えられた情報の支えが一本調子の安定したトーンで一つの特徴を描き出してくれる。

この境目を見極めて後者の書き方を選べるようになれば、淀み無く自由に目的の形を再現できるようになると思う。

目に写るどんな物体にも形があって、輪郭があるなら、その共通した本質を抽出できるということは、一つの用法を幅広く適用できるということ。

形あるもの、輪郭のあるものだと、無差別に、いっしょくたに対象物を解釈し、認識できてしまうことになる。

赤に属する色の名称は多様にあっても、基本は赤寄りの赤に属する赤色に過ぎないのだと大まかな枠に括るようなもの。

状況に応じた具体的な差別化を軽視したいわけではないのだけど、形において多様な対象の変化に戸惑う心境にあっては、膨大な規模の印象も数えきれる数に軽減できて、意図せぬ緊張を解きほぐすことができる。

見るだけでも駄目、書くだけでも駄目、見て描き写すサイクルを何度でも繰り返す必要がある。

遥か先の展開を思う窮屈な緊張感を覚えたならば、そのままでは到底歩み続けられない重荷を感じたならば、損なった継続の採算を改め取り戻すこと、痛みの波を捌いて凌ぎきるくらいの辻褄に調整しなければならない。

脆弱な身の丈を超えてしまうような負担を強いられ苛まれても、いつだって結局はその身の丈に収まるような辻褄で費やす労力を均等に分散、配分してきた。

人の体は頭よりも正直だから、継続の採算を損なった行いであれば既に気づいていて、常にブレーキがかかった状態になり、億劫から取り組めないで諦める正しさを認めれば、環境や手段、情報を補い整えることで円滑に歩み進める道は開かれる。

同じことをしていても、諦めることで解かれる重荷があるならば、その前後の変化で取り組みを比較すれば、時間の経過に乗じる採算の規模は広がり、失いかけていた時間の有り難みに気づけるかもしれない。

自分が信用できない、真っ直ぐな線を引けない、基本的な決まりごとさえ遵守できないでいるのは、こうした身の丈に反した緊張から招かれた、自業自得の災いに過ぎないのだろうか。

継続の採算に緻密な調整を要する煩わしさがあっても悲観することは無い、僅かな誤差でも容認できない脆弱性があるなら、逆に失敗に寛容な口実にしてしまえばいい。

復帰力とは無難な日常で覆い隠される対応力の類いであり、これ以上失わない為の、長く平穏に支えられていた安易な自分に気づく為のきっかけでもあり、慣れと不慣れを行き来して一喜一憂する普遍的な人間性を把握して制御する行いこそが、被害の拡大を最小限に留めて継続の道を閉ざされないで済む打算的な抑止力となる。

判断の正しさを信じれば、情緒不安定な歪みある線だって、続けるか改めるかの分岐を迫られる確かな節目なのだから、自信まで失って諦めてしまうことは無い。

真っ直ぐな線を書けない自分を否定することは、億劫に苛まれる判断の根拠を否定することでもあり、そんな歪みの理由を隠蔽して克服や脱却の糸口を掴めるべくもない。

稚拙で、情けなくて、不甲斐なくて、惨めに思えるくらいに思い描いたものから遠ざかっていたとしても、そんな出来映えに追い込まれた億劫こそ頑なに信じよう。

ただでさえ限られた時間を、瞬く間に済ませられるかもしれない判断に費やすべきではない。

それこそ継続の採算を損なう決定的な要因になりかねないのだから、歪んだ線とは飽くまで断念のきっかけに過ぎないのかもしれない。
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