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絵を描くこと・8

2017年 06月18日 20:51 (日)

細部であれ輪郭であれ、自身は対象を見て白紙に描き写す媒介となる。

絵を描く技術に対する自分の誤解を解く行為が楽しいから、描きたい絵も見つからず、絵を描くことさえろくに取り組めないと思い込みたい。

絵の技術を高めるというのは時間のかかる行為だと思っていた。

見た印象をそのまま描き写す転写と代謝のバランスを整えれば、細部に拘り過ぎなければ、ある程度まとまった部分は直ぐに描き写せる。

時間のかかる行為だと思えば実際には時間のかからない行為だとしても繋がらなくて、その時差の違いが長く絵を描く行為を隔ててしまっていたような気がした。

細部は細部で葉っぱの一枚から、まるで一枚の絵を描くような意気込みで、つまりは葉っぱ一枚を描けばいいという意気込みで取り組まないと続かなくて、あとこれを何回繰り返さなきゃいけないなんて今は考えたくもない。

描きたい絵が無いわけではなく、単に絵を描く技術が乏しくて、備わらなくて、導かれなくて、自分でも気づかない内に時期尚早だと後回しにしていたに過ぎなかったのだろう。

それっぽい口実を立てれば楽になって平静を保てるし、そうした一時凌ぎに何度も支えられてきたのは事実だけど、際限無く免れても行き過ぎれば反って自分の立場を追い詰め、苦しめることになってしまう。

絵を見くびりながら、買い被りながら、過大評価も過小評価もして、誤解を解き認識を改めながら、絵を描く行為の範囲を少しずつ解放すること自体が、自分にとっての絵を描く行為になる。

難しいという認識を改めるにはちょっとした勇気が要るというか、些かの躊躇いのような心境にあって、自分の当初からの憧れとか、大事にしていた価値観を自ら捨て去るような、そんな思い切りが必要なのだと思わせる何かがあった。

始めた根拠を否定すれば続ける動機すら見失いそうで恐くて、でもこれが本当の意味で自分が身を置くべき立場なのだと、前に進む為の手段なのだという確かな予感がある。

こうやって独り善がりに苦しみを募らせないことで前に進む力に変えられるなら、何も柵を残さないで飛躍できるなら、心を奪われる価値観さえ制御して再現できないと、気持ちを行ったり来たりさせないと、気後れしたまま身動きが取れずに、憧れから先へと進めなくなってしまう。

見くびって上手くいかないから許せない惨めさで引き上げられる高さがある。

憧れの価値観を制御し、克服してしまったら、当初の価値観は二度と取り戻せないのだろうか。

継続の動機はどう変遷するのだろう。

憧れとか悔しさとか、そういう観念に突き動かされて保たれている強靭な精神性は人体の脆弱性に類似する。

長く短い人生が些細な動機に奪われるように占められるのか、だから何に人生の時間を奪われるべきか、自ら選ぶ必要がある。

どの道を選んでも後悔するなら、薄々その可能性に気づけて取り組めないとしたら、脆弱な身の丈の献身、生涯を捧げる儚さを顧みずに先に進むことなんてできるのだろうか。

やっぱり軽く見たり大袈裟に考えたりしている。

右往左往行き来しながら、状況の変化と、報われる情報を確かめて着実に、時に飛躍的に歩みを進めればいい。

こうして滞って考えを深めても、それ以上に時間は経過しないのだから、必要な時間を割いたと思って、今できないことを無理に前倒しに取り組む必要は無い。

今状況を変えようとせずに、待つことで状況の変化を呼び込めたとしても、それはその時に今状況を変えたことにはならない。

時の経過の後ろ楯を蔑ろにして、同じ失敗を繰り返してしまうならば、完成の糸口は掴めないかもしれない。

達成に導く力の正体を突き止め、自由に発揮できるよう制御する為に、技術の向上は繰り返し取り組まれるのかもしれない。

見失ったまま放置すべきではない、支えの類いがあるのだろう。
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