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2017年 04月11日 15:40 (火)

絵を描く技術を高めたいとは言ったものの、具体的にどんな絵が描きたいのかは自分でもよく分かっていない。

昔はやりたいことすらできないで、いつか自由に時間を取れるようになったら、この取り組みに従事するんだって思ったはず。

大学の図書館で、勉強してる内容とはまるで異なる分野の美術に関する映像を見ながら、漠然とした未来を思い浮かべて、そう心に決めていた。

この絵が描きたいという具体的な対象が全く無いわけではないのだけど、絵を完成させたいと思う気持ちの傍ら、その対象というのが絵の技術を高めるきっかけとして利用されているような奇縁も感じられることがある。

この道に人生を捧げる決断が躊躇われる心境においては、絵を描くことが本当に自分の人生を費やすに値する行為なのかを確かめたいが為に、普段は億劫に思える不慣れな絵描きに取り組める、そんな動機さえもあった。

純粋に絵が描きたいってだけじゃない、培う為、確かめる為の手段として絵を描くという行為を利用する場合がある。

今、本当に描きたい絵が無くなってきているけど、考えようによってはいい傾向として捉えられる。

この世には様々な形があって、意味や目的があったり、あるがままの自然の姿だったり、その必然的な形の有り様を無差別に受け入れたいと思ったからこそ、怯えなくて済むようになった。

ひとつずつ身に付けた集大成をいつか構築することができたら、それが思い描いた完成の形になるのかもしれない。

再現者の憂いという概念があり、知る人ぞ知るものを作るべきなのか、誰にでも分かるものを作るべきなのか、本物と紛い物が交錯して真偽が覆い隠されるようでは、技の真価を伝えられたことにはならない気がする。

公に理解されるものを作りたい、本物なら誰にでも通用するものであってほしい、だから本当に差別してはいけないのは見る者の視点、人を選ぶような作品の作り方はしたくない。

いつも慣れと不慣れを繋ぐ媒介が欲しいと思っていたし、道の途方もなさなんて歩み出せば嫌でも直ぐに分かってしまうから、道を閉ざすことなく誰にでも歩み通せる明るく照らされた道でなければならない。

上達とは誰かの心を置き去りにする行為、延いては未熟な自分の心を置き去りにする行為、ほんの僅かな間に人の心を奪うことはできても、そこに誰かを導くことはとても難しくなる。

言葉によって施され、言葉によって解かれる呪縛のようなもので、脆弱な身の丈による献身を蔑ろにされたくないと思う心が、双方の間を隔てる溝を深めずにはいられない。

どこにでもあって絶えることの無い小競り合いが、この世のあらゆる煩わしさを解消する為の鍵だったりする。

話し合いの趣はそこにあって、補われるべき客観的な事実も踏まえないで過激な言動に身を委ねることがいかにやるせないか、人同士の争いに終止符を打てたら何を敵とするのだろう。

ようやく、この道を選べそうな気がする。
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