10月 « 2017年11月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  » 12月

スポンサーサイト

--年 --月--日 --:-- (--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

構築

2017年 03月31日 00:00 (金)

技術的に未熟で今すぐには取り組めないことだけを諦めたつもりが、時間さえかければいずれは取り組めるようになる前向きさ自体も巻き込んで諦めてしまう自分がいた。

大抵は、取り組みたいはずの着手に億劫な理由は取り組む順番を間違えてしまっている点にある。

なかなか手に着かないのは比較的に難しくて飛躍した段階の取り組みに拘っているからであり、才能云々を嘆くより先に、取り組みたくても取り組めないという行為を選択した客観的な正しさを信じることから技術の向上は始まるのだと思う。

基本的な下積みの構築はどうあれ、結果の出し方というのは適切な配分で負担の波を凌ぐ継続力と、捌くべき負担の対象を絞って拡張された余力を余すこと無く注ぎ込む集中力の二通りがある。

特に配分の仕方が対照的に正反対の両極端で、長所の強みを自負できる一方で短所の克服においては後ろめたさを拭えない間柄にある。

見方によっては、長く続けられる継続力も安易な繰り返しに終始する臆病な停滞とも見受けられ、群を抜く著しい結果の実現に至る集中力もその場限りの姑息なハッタリにしか映らないかもしれない。

どっちかを選ばなければいけないし、どっちができたからといって自分だけが結果を出せる特別な人間になれたことにはならない上に、そうした実態にそぐわない驕りや自惚れは安定した結果の実現を妨げる足枷にしかならない。

今まで、自分のやりたかったことの為に時間を作れなかったノロマはまさに自分自身のことで、一歩だって前に進めちゃいなかったから、もっと具体的に、少しでも具体的に伝えられるように取り組みを変えていかなければならない。

自分は天才なんかじゃないから、誰もが通る道を通って、蔑ろにして見過ごしていた基本を取り戻しながら、既に開拓された道筋であっても、まるで初めて発見されたことのように、遅れなんて気にしないで一つずつ自分のものにしていきたい。

煩わしさがあって、継続の採算を損なって、初めて改められる習慣がある。

余計な復帰の手間を強いられる煩わしさこそが安易な失敗を遠ざけてくれる。

それが速さであり、鋭さであり、煩わしさを嫌う人の素直さに他ならない。

昔、大学の図書館で見つけた美術の本に、何を以て作品の完成とするかを問う文言が記載されていたが、当時は身近な問題として考えられなかったので、今は詳しい内容どころか本のタイトルすら覚えていない。

スケッチの線すら安定しない自分に分かるべくもないが、個人的には完成とは既に済ませられたもの、次に進む為に自分で決めなければならないもの、妥協の余地の無いもの、必ずしもそこで完成だと決めつけてはいけないものだと感じられる。

意味は他にもいくらでも加えられそうな気がするけど、完成は何より自分の体それ自体に還元されるものであり、技術が蓄えられた心と体、それこそが完成の結晶として表に現せる唯一の手段と成り得る。

技は写し出されるものであり、版画のように一度でも築き上げてしまえば何度でも繰り返し同じ面を写し出すことができる技術の汎用が、唯一無二の個性を求めるあまりに量産から意識を遠ざけ、構築の力それ自体を遮るようになってしまった。

状況に応じて何度も使い回せる勝手の良さが無ければ、完成に至るまでの膨大な過程を消化するのは至難の技であり、スタンプで空白を覆い尽くすような便宜を図らなければ、完成に至る道筋すら途方もなくて見失ってしまう。

後でいくらでも、割に合わなくて申し訳ないほどの元を取れるから、技術の定着に伴う痛みは躊躇無く凌いでいいし、培った技術もまた、直ぐに元を取ろうとして焦って無理に結果を見定め、使えないと安易に判断して見限ってしまうことの無いように、慎重に状況に応じた効果を検討する必要がある。

もう充分頑張った、これ以上はできない、今ある成果が自分の全てなんだって思って億劫な一歩を仕方無く繰り返していると、いつしかその歩みが確かな進捗の手段になる。

自分の全てだと思っていた過程が取るに足らない一部に過ぎなくなる事実が本当に嬉しくて、安易な試みを避けて厳かな線が引けるようになった段階の変遷に感謝したくなる。

億劫で緊迫した一歩がずっと続くわけじゃない、絶え間無く膨大な波を凌ぐとなれば嘗ての厳かさは身を潜め、改められた継続の採算が一つの壁を越えられたことを報せてくれる。

そうした積み重ねが公に認められる成果として表れてくれるなら、たとえ今を捨て去るような取り組みに従事していたって恐くないし、先なんか見えなくたってこの取り組みの行き着く先の姿を信じて、どう芽吹くかも分からない技の根を育むことしか他にできることは何も無い。

何かを継続して、結果を出すというのは、そういうことだと思うから、何もかも分かったような振る舞いではとても続けられないし、人にこれからどうするのかなんて聞かれても、できることは限られていて、やれることは決まっているとしか、言いようが見つからなかった。

選んだ道には他の何かを犠牲にした後ろめたさが伴っていて、等価であるからこそ相応の思い入れがあって、それ以上立場を危ぶめないように必要に迫られて背中を押される力も働いている気がする。

やりたくてやってるのか、仕方無くやってるのか、好きだけでは続かなくて、嫌な思いをしたって諦めず、自分の取り組みの価値を伝えられないもどかしさを感じながらも、いつか人に認めてもらいたい自分が常に居る。

できないと分かっていれば諦めもつくのに些細なことだからこそ上手くいかないと悔しくて、取り組みに伴う重圧も変化して、できる人とできない人の間に溝を生じさせる。

こんなこともできないのかとか、できる人が羨ましいとか、表に出したり内心募らせたり、些細なことに過剰反応して大変なことだと思い込んで取り組みづらくなっているなら、些細な言動が命取りでもたまには見くびったっていいと思う。

そんな匙加減の難しさが人に何かを伝える難しさであり、優劣の軋轢を生じさせる要因となるなら、やっぱり億劫でも面倒でも優先順位が低くても、具体的に伝える技術を、どんなに時間を費やしたって育まなければならないだろう。

心のどこかで人を見下している自分がいて、人の問題にはほんの僅かな時間さえ費やすことを躊躇い、畑違いの分野には手も足も出せない身の丈を守りながら、昔からやりたいことがあっても未だ何一つとして成し遂げていない。

自分一人だけできたってしょうがない、みんなが同じように努力して結果を導き出せたらいいのに、みんなができるようになることに取り組むわけにはいかないのか、どうして自分はやりたいことに時間を割けないで、人には頑張ってほしいなんて思うのだろうか。

今ある心情を切実に吐露するしかできることは無く、願わくば、人の心に仄かな火を残し、煽り、飛び火させ、人の心に巣くうこの世の悪を焼き尽くすような動機を作れる創作に携わりたい。

傲慢だ、夢想だ、分かってる、歴史は繰り返す、人が人である限り、この世の悪なんて滅ぼせやしないのかもしれないけど、遠ざけて症状を軽減させることはできるはずだ。

説明のつかない現象を神の仕業に例えるみたいに、心の病気を鬱病と呼ぶのも善悪の区別や認定も同じで、その場凌ぎの仮の意味じゃなく、もっと別に納得できる姿があるのではないかと疑うべきだろう。

いつまでも仮設の便宜にばかり頼ってはいられない、悪とか正義とか、安易に括られた名称の枠組みに捕らわれず、何が正しくて何が間違っているのかを説明できるようにならなくてはいけない。

悪?正義?やっていいことといけないこと、被る不都合或いは好都合、人の為?自分の為?法に背けば罰を与えて、悪に傾く経緯や真相を顧みずに身勝手で呆れた言い分だと一蹴する。

みんなが同じように苦労しているのに、自分だけ法を逸脱するなんて我が儘だなんて、あたかも不平無く対等な立場で競い始めたような口実を並べる言動こそ理不尽で卑怯な行為に思える。

本当に同じ惨状を繰り返したくないと思うなら、感情に身を任せて罰則を強める他にも根本的に改めるべき点は見受けられるはず。

なのにそれをしないのは対岸の火事が綺麗だから、自分さえ良ければいいから、些細なことに貴重な時間を割くのは勿体無いから、本当に必要なことならそう感じる誰かが代わりにやってくれるから、自分にはできないと思うから、いざ実害を被れば他人事とは思えない問題の深刻さを痛感するにも関わらず、だから今まで長い間放置されてきた。

この世のあらゆる煩わしさが解消された世界では、人は何を生き甲斐にして過ごすのだろうか、行き着くべき完成の姿を見てみたかった。

無欲に余生を過ごすわけでもない、狂気に身も心も委ねるわけでもない、そんな退屈で騒々しい社会でまともに生きていける自信なんて無い。

いい人の辛抱強さが報われない、維持すべき大事な存在さえ中途半端にしか守れない、導けないような社会だと思ったから、二度と同じ過ちを繰り返さなくて済むような社会への変遷に貢献したいと思った。

何もかも嫌になって根本から刷新したいわけじゃなく、体内の腫瘍を取り除くように、人の心身に悪さしている小さな要因を切除して自然と快方に向かうような、そんな僅かに逸れた軌道を修正すべきだと思った。

人を人のままに、間違った方向に進ませないように、背負う重荷を少しでも軽くして、今を凌ぎ易くする為に、ただそれだけに専念すべきなのだと、改めて気付いた。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

2017年04月01日 12:36

はじめまして、ソラと名乗っています。
記事を興味深く拝見致しました。
自分がやりたいこと、すべきこと(もしかするとそれは自己療養の働きも備えているのではないでしょうか)が明確にありながらも踏み出せない自分に対する嫌気、考えすぎた結果何もできずにいた自分に対する怒りのような感情に共感しました。また、そんな嫌気や怒りを感じている自分にさえも何かしらマイナスの感情を抱いてしまうのではないかと思います。おそらくこの螺旋に終わりはないのでしょう。
たぶん僕達に(勝手にまとめてすみません)必要なのは自分から目を逸らさないことだと思います。他者に対する蔑視、自身に対する無根拠な信頼、何もできなかった事実、それらを引き受けることでしか自身の靴音を聞くことはできないのだと思います。でもhuruiさんは目を「逸らせない」人だと見受けました。
この記事を読むとhuruiさんはもうすでに一歩踏み出しているように思えます。あくまで思えるだけですが。
記事を読んだことで第三者である僕が励まされた気持ちになりました。きっとhuruiさんにとっても、この記事を書いたことで何かが変わっていると思います。それがありありと感じられるものかどうかは分かりませんが。
話は変わりますが、文体がとても好きです。僕は(当然と思われるかもししれませんが)言葉には意味はもちろん、何か気配のようなものが纏わりついていると思います。例えば「夕焼け」という言葉の意味は、西の地平線に太陽が近づき空が赤味を帯びること、といった意味ですが、そのときの空気感とか感傷的な気分という、言うなれば近接要素みたいなものです。
そういったものを、少なくとも僕は感じました。
失礼します。

Re: No title

2017年04月01日 15:22

コメントいただき、ありがとうございます。

記事の内容について独自の見解を踏まえて共感を示してくださったこと、大変嬉しく存じ上げます。

一度間違えて本文をそのまま返信してしまいまして、大変ご迷惑をおかけしました。

本当に申し訳無いです…。

いただいたコメントについてですが、こちらも興味深く拝見しました。

自己療養というのは確かにあるかもしれませんね。

やるべきこと、やらなければならないことに取り組む状態というのは、自分でも気づかないうちに何かに支えられていて、見た目普通の状態に見えても、本当はもっと感謝すべき有り難い状態であることを自覚するべきなのかもしれません。

もう一つ気になった点について、言葉が纏う気配という概念も、その表現の仕方が独特で、未踏の地に足を踏み入れたような、新しい言葉の可能性に出会えたような気がします。

普段だったら考えつくかどうかも怪しく、そういった盲点に気づく機会をいただけたこと、コメントを通して解釈を交えて励ましの言葉をいただけること、大変励みになります。

プレッシャーを感じてしまうと普段通りに振る舞えないので、これからも必要だと感じたことを中心にブログに綴るよう努めますが、それでも読み手の皆さんが求める内容に近づけ、ご期待に応えることができれば幸いです。

結びに、改めて感謝を申し上げます。

よろしければ、また読みにいらしてくださいね。

お待ちしてます。

No title

2017年04月01日 22:11

こんばんは、また覗きに来てしまいました。
一つ書き忘れていたことを思い出しました。言葉の気配の話です。
huruiさんの文体が好きだなぁと、好きだなぁというか凄いなぁと思ったのはそれぞれの言葉の気配が最大限広がりを保ちながら別の言葉と結びついていると感じたのです。少しキザに言うなら、それぞれの言葉が輝きを保ちながら共存しているような。それ故に凄いなぁと思いました。感覚的な説明ですみません。

ぜひ書きたいことだけを書いてください(笑)
それでは!
またお邪魔します。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。