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置き去り

2017年 03月12日 12:20 (日)

言い訳だろうがマナー違反だろうが、その時どうしようもなかった自分の立場も尊重できないで、どうして問題の原因を顧みて同じ失敗を繰り返さずにいられるだろうか。

容易には切り離せない、過酷な境遇に身を置かざるを得ない人にとっては、マナーも正論も、本当に解決を目指すべき問題から目を背けた見栄や建前にしか映らなくなる。

どうしようもなく不利なハンデを抱えて、他者と同じように振る舞えたからといって、苦境を耐え忍ぶ過程を蔑ろにされては正当な評価を得られたとは思えない。

対等でない条件で同じ成果を出して認められた所で、たとえ独り善がりに募らせた苦難の足枷だとしても、献身の事実を無かったことにされたまま継続できる道理なんてありはしないのだから。

マナーや常識を蔑ろにしていいことにはならないし、楽に済ませられることを楽に済ませず、いまいち手応えを得られない評価の客観性を得る為に露骨に自分を追い詰めても、相手からも水増しされた成果のように映ってしまい、実益の見込めない過程に気を遣った身の丈を蔑ろにされ続けるなら、切実な思いからの献身でも公に認めるなんてことはできやしない。

マナーや常識は大事、個々の置かれた立場の違い、正当な評価の区別も大事、隔絶された双方の関係を対等に繋ぎ止め、滞りなく速やかな流れを実現するにはどうしたらいいだろう?

見せしめるように目先の一人に注がれる憎悪や期待の裏切り、思い改めるなら相手の心を傷つけていい理由になるのだろうか、荒療治も仕方無いと、悪癖を放置しないで済んだ感謝の気持ちとか、そんな都合のいい展開を期待して嫌悪感を露に人の人格を非難して然るべきだろうか。

ただ自分の立場や献身の過程、苦難の事実を蔑ろにされたくないから違いを認めて欲しいだけなのに、その違いから分かり合えないと諦めてしまうのは皮肉な道理の罠に過ぎない。

相手の立場を思いやれるのは、慰められるのは、労えるのは、評価して認めて褒めてやれるのは、いつだって自分が同じことを経験したから、まるで自分自身のことのように、相手ではなく自分を褒めてやるみたいに相手を擁護する、いや、みたいにじゃなく、確かに自分自身を褒めている自分が居て、どこか浅ましく、惨めな気持ちさえよぎる瞬間がある。

それほどまで我が身こそ愛しく、自分が最も大事だという本音を晒せないで相手の立場を思いやることができるのは、暗黙の了解からか奇しくも図られる共感の一致か、分かり合い、譲歩を引き出せる余地がないとは言い切れない損得勘定の駆け引きがある。

殺意にまで膨らむ憎悪も人体の脆弱を顧みれば決して遠からず常に隣り合わせの問題だと考えても過言ではなく、復讐の火種がそんな脆弱な身の丈を脅かす些細な言動で煽られるからこそ、過激な行為に及ぶ事態がまるで餓死を免れるように紙一重に隔てられ、長きに渡り維持されている事実を忘れてはいけない。

見込み望んだ手応えを得られなくて、まだ足りないのだと思って、誰にでも分かるように献身を過剰に著しくする行為が溝を深めてきたなら、もうとっくに手に入れた成果であるという事実に、いかに早く気づけるかが次に進めるかどうかの境目になる。

故に小さなことに勢い余って継続の採算を損なうこと無く、小さなことだと軽視して自身の立場を蔑ろにすることも無く、周りの理解を求めるよりも自分で確かな客観的な根拠を携えながら自分自身を評価してやれることが、長い間頑なに拘っていた問題の終結と、次に進む為の力になる。

自分がより良く変わってしまったら置き去りにしてしまう自分の境遇と似た誰かが居るから、その問題を覆い隠して見失ってしまうことの無いように、弱者であり続ける茨の道を選ぶのだろう。
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