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競技者

2017年 01月28日 12:06 (土)

例えば陸上競技の大会で活躍する選手を見ていると、結果という際立たせた完成の形の裏にはたゆまぬ膨大な試みの過程があったのだろうなとは、飽くまで傍観者に過ぎない立場としてからは見て察することができる。

観衆は完成された競技に心を奪われても、慣れない過酷な練習に巻き込まれたり付き合わされたり、またはそういう試行錯誤の過程をリアルタイムで見届けるような不自由な拘束を強いられたくはないだろう。

だから人目に触れる練習の形なんて、その行く末にある結果だけで充分だと考えられる一方で、褒め称えられる人に対する羨望の眼差しが妬みの視線に変遷し得る側面を潜ませている以上、過程を覆い隠して残された結果の形だけを無闇に鵜呑みしてはいけないとも考えられる。

中途半端な結果の巻き添えになって貴重な時間を無駄にしたくはないと思うから、完成された結果の形だと言い張る競技者に求められるのは輝かしい技術の完成の瞬間それ自体であり、その成就に至る泥沼のような鍛練の過程を切り離して、まるで初めから無かったことのように振る舞わなければならない。

勝つべく強くあろうとする行為によって隔たる溝は、勝者を身の丈に合わない領域に追いやり、敗者の惨めな心を置き去りにする。

相手が動いていなくても自分が素早く動けば相手との間に速さの違いが生じて見失うことがあるように、早急な対応を迫られて連動する脅威の姿を見定められなくなる。

勝とうとする行為の正しさが当たり前になり過ぎて、その水面下に蔓延る災禍の源を疑えなくなってしまっている。

勝ち負けの次元を超越した先に見据えられる社会性こそ、人の進化に他ならない無差別な愛の形なのだろうか。
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