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有り難みの形骸化

2016年 12月27日 13:21 (火)

腹痛に苦しんだり忘れ物を職場から自宅に取りに取りに戻ったり、そんな時に何気無い日常の有り難みというものを痛感する。

でも、その有り難みを常に感じながら毎日の生活を送ることはできない。

大抵は、煩わしさが切り離せなくなるまでは無事の有り難みを痛感することは無い。

腹痛を避けた方が自由に動けて、忘れ物なんてしない方が慌てなくて済むはずなのに、稀にではあるけど同じ失敗を繰り返してしまう。

退屈だからってだけじゃなく、恐らく無事で済ませられることの有り難みを取り戻したいのは、何気無い日常を維持する苦労を自分で蔑ろにしてしまっているからだろう。

切り離したくても直ぐには切り離せない痛みを自ら伴わせることによって初めて、それまで安定の維持に努めた自分の苦労が報われる気がする。

過酷な労働が報酬の対価に見合わぬように、割に合わない部分があるからこそ放っておけないのであって、特に献身の過程を蔑ろにされる痛みというのは到底見過ごせるものではない。

そもそも何の為に安定した生活を維持するのか、何に活かしたくて辛うじて繋ぎ止めようとするのか、生きて働く意味は曖昧なままにしてはいけないのかもしれない。

ろくに体を動かせなくなるような不自由な事態は思った以上に珍しくもないから、体調を整えたり余計な心労を避ける機転は常に隣り合わせの課題でもある。

維持に努めてもやがては衰え、死後自分に直接有益な何かを残せるなんてことが無いのも分かっているけど、とにかく払った犠牲に報いたくて何かせずにはいられない。

家族の為に働くのか、娯楽の為に維持するのか、事業を成し遂げ生活を有利にする為に繋ぎ止めるのか、生きる意味なんて生きていられる内の範疇でしか決められないのに。

死後干渉できるべくもないから、せめて生きている間ぐらいは与えられた意味なんかにすがらずに、自分で生きる意味を取り繕いたい。

処理すべき負担の処理に奔走すれば、人の1日は割と簡単に埋まってしまう。

一朝一夕で成し得ぬことなら、瞬く間に月日は過ぎ去っていく。

時間を奪われてなお多く余りある負担は日を跨ぎながら少しずつ消化されていく。

維持するのに精一杯で生きる意味や働く意味なんて考えている暇すらないのに、どうして維持の苦労が報われず蔑ろにされたような気持ちになって追い詰められるのか。

自分がちゃんとやってるって周りに気づいてもらいたいから、やって当然だと思われたくないから有り難みを感じてもらえるように落ち度を散りばめるのだろうか。

でないと何事も無かったかのように無事の安寧も貢献の事実も見過ごされてしまうから、少しでも気づいてもらえる可能性が高くなるように故意にしくじって、ちゃんとやってないって見咎められてしまう。

とにかく無事の有り難みを痛感できない苛立たしさは維持できた束の間のチャンスを存分に活かせない偏りから生じるものだと思う。

無事に済ませられるとは、それだけ育める期間が長くなるということで、いかに早く始め長く続けられるかがいつも立場の有利不利を決める分岐になっていた。

若しくは既に充分と言える程長い期間に渡り安定を維持してこれたのだから、寧ろ蔑ろにされている有り難みというのは紛らわしくも無事の安寧ではなく、維持に努めた献身それ自体なのかもしれない。

何気無い日常の有り難みと言うけれど、一日でも我慢ならない不自由な事態を長い間免れ続ける方が、たった一度の失敗で痛感する今その時の有り難みよりよっぽど言葉にならない献身の過程を窺える。
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