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効率について

2017年 06月30日 06:03 (金)

効率とは終始意識するものではなく、いつから始めるかだけの辻褄合わせでいい気がする。

やるべきことさえ決めて実践すれば、あとはとりあえず放置で構わない。

不都合があれば明るみに出るし、下手に元の設定とか条件をいじると、変化や欠点が分かりづらくなる。

肝心なのは何を備えるかということ。

規模を巻き込む程に広がる損益の差、気を張っていて長持ちすべくもないが、短期戦か長期戦かが勝敗を分ける決め手となる場合もある。

力を出し惜しみして、弱い力で何かを動かそうとしても、必要な力に達していなければ悪戯に体力を浪費するだけ。

そうやって適切な力加減を模索したり、足りない備えを補ったりする機転が欠かせないけど、見逃しがちなのは、その転機がいつ現れるか。

思い通りにいかない煩わしさや苛立ちに覆い隠されて、明るみに出た瞬間は既に通り過ぎ去ってしまっている。

すぐさま対策を立てようにも、すぐに根本的な改善案が浮かぶとも限らないし、寧ろ思った以上に纏まった時間を要する難題で、適切な塩梅で取り組めていた可能性も蔑ろにはできない。

効率とは直ちに求めるべきではないし、際限無く持続させるべきでも無い。

人にとっての効率と、組織にとっての効率は違うことがあるから、まるで道具を大事に長持ちさせるみたいに、乱雑に扱って壊してしまうみたいに、その境目も曖昧なまま改善の糸口さえ掴めずに従事するしかない。

誰かの効率が他の誰かの非効率となり、利害の一致も見込めず妨げ合い、互いに相容れないと仲違いするなら、何が双方にとっての効率になるのだろう。

愛想を尽かして、見放して、感知せず、声が聞こえないから何も問題は無いと、独り善がりに苦しみ続けるか、そんな苦境に身を置いて新たな道を切り開くか、効率とはそんなに無力な概念だろうか。

効率を封じる効率の類いがあるとしたら、確かに太刀打ちできないかもしれない。

それでも非効率に懲りれば、効率良く行こうと思わざるを得なかった。

もっと上手くやろう。

前にも同じ失敗をしたはずなのにそう思うような局面に立たされてしまうのは確かに覚えが悪いからかもしれない。

効率は常に携えるものだけど、人に無理強いするのは筋違いな部分だってある。

お互い様だけど、一つしかない場所を奪い合うような様相は片方だけが相手の心情を汲んで譲歩の姿勢に傾いても、自分の心遣いを蔑ろにされる事態が許せなくて、穏便に済ませられる方が稀だと思う。

こんなにもギリギリな線で譲り合って共存しているのに、寛大な譲歩が双方に有益となる場合が少なく思えるのは、やっぱり人の脆弱な身の丈に由来する客観性からかもしれない。

貸し借り無しは望ましい関係だけど、どこかで誰かが一人甘い蜜を吸い、嘲笑いしながら見下している被害妄想でもすれば、そんな関係の構造さえ利用せざるを得ない立場にあって命を繋いでいる現状が呆れて可笑しくもある。

効率とは意思に関わらず選ばされるものだろうか、余計な雑念が削ぎ落とされて、立場なりの正解に導かれることが、今利用し得る最良の手段なのかもしれない。
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絵を描くこと・13

2017年 06月29日 14:16 (木)

時間は今思う以上には過ぎ去ってくれない。

忙しなくもなく緩やかで、直ちに捌くべき波など訪れず、今という時間に遮られながらも穏やかに過ぎ去っていくべき経過であることを知る。

今が今のままいつまでも終わらず、既に過ぎ去った今であることさえにも気づけず、目先の小さなことに勢い余らないよう意気込んではみても、凌ぐべき波が見つからないのでは空回るしかない。

時間が進んでくれない限り、著しく消耗し続けるのだから、考えることを止めれば、自分に言い聞かせて、空しくて惨めな思いをしてまで、しなくて済むことをしないで済む。

何が起きても動じない心が欲しい。

何も期待せず、寄り掛からず、裏切られず、風当たりが強くたって全く物怖じしない、関心すら払わないように振る舞いたい。

それで余計な消耗を免れて絵を描く余力を確保できるなら、状況を選んでなんかいられない、長く安定して継続できる道を選ぶ。

済ませるべきことは済ませたのだから、他のことに貴重な時間を奪われる事態は避けたいという意味で、もう自分の問題にこれ以上余計な干渉はされたくないと思う。

使える時間が限られているとしても、そのおかげで無駄な動きができなくなり、限られた時間だから発揮できる集中力があるなら、対象の絞り方を誤らなければ、自分が求めていた日常生活のあり方に少しは近づけるはず。

限られた時間で導き出せる辻褄で結果を求めるしか現実的に選び取れる道は無いのだから、まだ時期尚早だと思った技術にも身を置いて、図らずも追いやられるように飛躍していけばいい。

今は僅かな時間で身につけられることに専念すればいいけど、いつかもっと多くの時間を割けられるようになりたい。

絵を描くこと・12

2017年 06月25日 20:57 (日)

毎日、捗らせたいと思う量の一割に満たない程度しか取り組めていないような気がする。

このペースで続けたら、一体どれほどの時間を無駄にすることになるのだろうと思うと、少し苛立ったり恐くなったりする。

正直、ゲームや動画や漫画も好きで、気休めみたいに優先して時間を奪われてしまうから、滞ってまで絵を描きたいと思う気持ちよりそっちの方に限られた時間を割いてしまうなら、絵を描きたいと思う気持ちなんてその程度だったんだと認めざるを得なくなる。

それでいいと思う。

身の丈を偽らない。

夢中もいいし、没頭もいいし、盲信もいい。

でも、好きだからどんな苦しみを厭わないわけじゃない。

避けられない痛みを耐え忍ぶことはできても、無尽蔵な痛みを顧みずに好きなことを好きなまま続けられるほど人は強くないと思う。

今は安易な娯楽が優勢でもいい。

それを選べなくなるくらい、絵を描くことに没頭できるほどのきっかけを、進捗を、修正の土台を手に入れてしまえばいいのだ。

だから今の自分の、絵に対する買い被りがちな価値観を改める。

既存の価値観を凌駕することに取り組めばいい。

劣勢から始めて覆すくらいが丁度いい。

とりあえず、それでいってみよう。

絵を描くこと・11

2017年 06月24日 22:24 (土)

自分の書く線が信用できないことがある。

電柱や樹木みたいな形が持つ直線さえ書きながら歪んでいて、自分の中で書くべき形が定まっていない。

対象を見ながら書くと形の詳細を確かめながらの動作になるので、どっちつかずで安定しない筆跡になる。

対象の形を見て覚えてから書いてみると、予め備えられた情報の支えが一本調子の安定したトーンで一つの特徴を描き出してくれる。

この境目を見極めて後者の書き方を選べるようになれば、淀み無く自由に目的の形を再現できるようになると思う。

目に写るどんな物体にも形があって、輪郭があるなら、その共通した本質を抽出できるということは、一つの用法を幅広く適用できるということ。

形あるもの、輪郭のあるものだと、無差別に、いっしょくたに対象物を解釈し、認識できてしまうことになる。

赤に属する色の名称は多様にあっても、基本は赤寄りの赤に属する赤色に過ぎないのだと大まかな枠に括るようなもの。

状況に応じた具体的な差別化を軽視したいわけではないのだけど、形において多様な対象の変化に戸惑う心境にあっては、膨大な規模の印象も数えきれる数に軽減できて、意図せぬ緊張を解きほぐすことができる。

見るだけでも駄目、書くだけでも駄目、見て描き写すサイクルを何度でも繰り返す必要がある。

遥か先の展開を思う窮屈な緊張感を覚えたならば、そのままでは到底歩み続けられない重荷を感じたならば、損なった継続の採算を改め取り戻すこと、痛みの波を捌いて凌ぎきるくらいの辻褄に調整しなければならない。

脆弱な身の丈を超えてしまうような負担を強いられ苛まれても、いつだって結局はその身の丈に収まるような辻褄で費やす労力を均等に分散、配分してきた。

人の体は頭よりも正直だから、継続の採算を損なった行いであれば既に気づいていて、常にブレーキがかかった状態になり、億劫から取り組めないで諦める正しさを認めれば、環境や手段、情報を補い整えることで円滑に歩み進める道は開かれる。

同じことをしていても、諦めることで解かれる重荷があるならば、その前後の変化で取り組みを比較すれば、時間の経過に乗じる採算の規模は広がり、失いかけていた時間の有り難みに気づけるかもしれない。

自分が信用できない、真っ直ぐな線を引けない、基本的な決まりごとさえ遵守できないでいるのは、こうした身の丈に反した緊張から招かれた、自業自得の災いに過ぎないのだろうか。

継続の採算に緻密な調整を要する煩わしさがあっても悲観することは無い、僅かな誤差でも容認できない脆弱性があるなら、逆に失敗に寛容な口実にしてしまえばいい。

復帰力とは無難な日常で覆い隠される対応力の類いであり、これ以上失わない為の、長く平穏に支えられていた安易な自分に気づく為のきっかけでもあり、慣れと不慣れを行き来して一喜一憂する普遍的な人間性を把握して制御する行いこそが、被害の拡大を最小限に留めて継続の道を閉ざされないで済む打算的な抑止力となる。

判断の正しさを信じれば、情緒不安定な歪みある線だって、続けるか改めるかの分岐を迫られる確かな節目なのだから、自信まで失って諦めてしまうことは無い。

真っ直ぐな線を書けない自分を否定することは、億劫に苛まれる判断の根拠を否定することでもあり、そんな歪みの理由を隠蔽して克服や脱却の糸口を掴めるべくもない。

稚拙で、情けなくて、不甲斐なくて、惨めに思えるくらいに思い描いたものから遠ざかっていたとしても、そんな出来映えに追い込まれた億劫こそ頑なに信じよう。

ただでさえ限られた時間を、瞬く間に済ませられるかもしれない判断に費やすべきではない。

それこそ継続の採算を損なう決定的な要因になりかねないのだから、歪んだ線とは飽くまで断念のきっかけに過ぎないのかもしれない。

絵を描くこと・10

2017年 06月21日 14:31 (水)

特別なことがしたいわけじゃない。

できて当たり前のことを、当たり前に済ませたいだけ。

誇らなくて済む。

貶さなくて済む。

自惚れなくて済む。

なのに余計な足枷が外せない。

無理をしないで、基本を守る行為の結果として、群を抜いて際立つ何かを特別と呼ぶ。

独り善がりな苦しみなんて要らない。

ただ中途半端なだけなんだ。

徹しきれていない。

このままではいけない。

重荷を解かなければ。

少しでも軽くしなければ。

そういうことが必要。

本質的に共通した行為。

歩けば歩くほど不利になるような状態を避ける。

難しく考えない。

絵を描くこと・9

2017年 06月20日 08:01 (火)

猶予を今一度に限らせてはいけない理由。

二度、三度確かめて傾向の信憑性を得る。

最初の一度では、それが不変の傾向であるかどうかを見極められない。

結果として間違いだったとしても、絵は一度きりの猶予で描きたいと思う。

一度きりならば注げる、早く短く済むから取り組める。

狭められた猶予は時に有利な手段を奪い去る。

間違いを避けようとする心境自体が壁を作る。

どうして間違わずに済ませたいと思うのだろう。

間違いを想定できないくらい正解を目指しているからか。

一つの正しい技術を身につける為に多くの間違いが避けて通れないなんて、まるで間違いを必要としているかのようだ。

間違い自体が必要なわけじゃなく、間違いを経由すること、迂回できないこと、心苦しさ、拙さと向き合う勇気、避け続け、水増しされた価値、その割に合わなさを克服すること、そういった過程こそが上達に欠かせない正解の形。

とにかく修正の土台となる基準を設けなければ、改善のきっかけさえ掴めないのだから、間違いを恐れるのではなく、自ら間違いを求めて、通り過ぎて、手に入れてしまえばいいのだ。

金縛りのような余計な緊張が解けて、改善に伴う速やかな所作が繰り返されるようになれば、失敗を恐れる理由なんてどこにも無い。

失敗もこの世に確かにある一つの結果なのだから、何をどう調整して制御すれば望ましい結果に導けるのか、一度きりの猶予で確かめられる情報なんてたかが知れている。

傾向を探って、間違った道を避けて、狭く正しい道に追いやられる成り行きが、道を違えるということ。

残された道が僅かにしか無いなら好都合、他にあてどもなく歩き続けるくらいなら、あるがままの流れに身を委ねて試みよう。

最後に正解を決めるのは、自分の意思では無いかもしれない。

認めざるを得ない答えだから、心置き無く信用することができる。

限り無い選択の自由が、不自由を被らせているのだろう。

絵を描くこと・8

2017年 06月18日 20:51 (日)

細部であれ輪郭であれ、自身は対象を見て白紙に描き写す媒介となる。

絵を描く技術に対する自分の誤解を解く行為が楽しいから、描きたい絵も見つからず、絵を描くことさえろくに取り組めないと思い込みたい。

絵の技術を高めるというのは時間のかかる行為だと思っていた。

見た印象をそのまま描き写す転写と代謝のバランスを整えれば、細部に拘り過ぎなければ、ある程度まとまった部分は直ぐに描き写せる。

時間のかかる行為だと思えば実際には時間のかからない行為だとしても繋がらなくて、その時差の違いが長く絵を描く行為を隔ててしまっていたような気がした。

細部は細部で葉っぱの一枚から、まるで一枚の絵を描くような意気込みで、つまりは葉っぱ一枚を描けばいいという意気込みで取り組まないと続かなくて、あとこれを何回繰り返さなきゃいけないなんて今は考えたくもない。

描きたい絵が無いわけではなく、単に絵を描く技術が乏しくて、備わらなくて、導かれなくて、自分でも気づかない内に時期尚早だと後回しにしていたに過ぎなかったのだろう。

それっぽい口実を立てれば楽になって平静を保てるし、そうした一時凌ぎに何度も支えられてきたのは事実だけど、際限無く免れても行き過ぎれば反って自分の立場を追い詰め、苦しめることになってしまう。

絵を見くびりながら、買い被りながら、過大評価も過小評価もして、誤解を解き認識を改めながら、絵を描く行為の範囲を少しずつ解放すること自体が、自分にとっての絵を描く行為になる。

難しいという認識を改めるにはちょっとした勇気が要るというか、些かの躊躇いのような心境にあって、自分の当初からの憧れとか、大事にしていた価値観を自ら捨て去るような、そんな思い切りが必要なのだと思わせる何かがあった。

始めた根拠を否定すれば続ける動機すら見失いそうで恐くて、でもこれが本当の意味で自分が身を置くべき立場なのだと、前に進む為の手段なのだという確かな予感がある。

こうやって独り善がりに苦しみを募らせないことで前に進む力に変えられるなら、何も柵を残さないで飛躍できるなら、心を奪われる価値観さえ制御して再現できないと、気持ちを行ったり来たりさせないと、気後れしたまま身動きが取れずに、憧れから先へと進めなくなってしまう。

見くびって上手くいかないから許せない惨めさで引き上げられる高さがある。

憧れの価値観を制御し、克服してしまったら、当初の価値観は二度と取り戻せないのだろうか。

継続の動機はどう変遷するのだろう。

憧れとか悔しさとか、そういう観念に突き動かされて保たれている強靭な精神性は人体の脆弱性に類似する。

長く短い人生が些細な動機に奪われるように占められるのか、だから何に人生の時間を奪われるべきか、自ら選ぶ必要がある。

どの道を選んでも後悔するなら、薄々その可能性に気づけて取り組めないとしたら、脆弱な身の丈の献身、生涯を捧げる儚さを顧みずに先に進むことなんてできるのだろうか。

やっぱり軽く見たり大袈裟に考えたりしている。

右往左往行き来しながら、状況の変化と、報われる情報を確かめて着実に、時に飛躍的に歩みを進めればいい。

こうして滞って考えを深めても、それ以上に時間は経過しないのだから、必要な時間を割いたと思って、今できないことを無理に前倒しに取り組む必要は無い。

今状況を変えようとせずに、待つことで状況の変化を呼び込めたとしても、それはその時に今状況を変えたことにはならない。

時の経過の後ろ楯を蔑ろにして、同じ失敗を繰り返してしまうならば、完成の糸口は掴めないかもしれない。

達成に導く力の正体を突き止め、自由に発揮できるよう制御する為に、技術の向上は繰り返し取り組まれるのかもしれない。

見失ったまま放置すべきではない、支えの類いがあるのだろう。

絵を描くこと・7

2017年 06月17日 17:19 (土)

後先考えずに、人の心に残せるような絵を描きたいと思ってはみても、なかなかそう上手くはいかない。

時間の少なさからストレスは拭いきれないし、もっと時間がとれていたらと思うと、残された僅かな時間を大事に活かそうとする有り難みすら忘れて悪戯に心身を摩耗させてしまう。

もう二度と味わいたくないと思った苦しみさえ、当初のそんな気持ちを蔑ろにして似たような苦境に身を置いてしまうことがある。

今度はもっと上手くやれると思ったのか、当事者の立場は傍観者の立場では知り得ないと思ったのか、苦しみの立場の、束の間の楽しそうな部分しか目に写らなくて、切り離せなくなって初めて後悔する。

映画や漫画のシーンみたいに、人の意欲を掻き立てるような仕草に目を奪われると、傷つき失う痛みとか、生活の手間とか汚れとか、耐え難い長い時間の経過とか、そんな肝心な苦しみを度外視してしまうから、いざ当事者の立場にあって戸惑い、挫け易くなる。

物語では正確な時間の流れを伴う肝心な痛みは伝えられないし、伝えられたくもない。

綺麗な部分だけを切り取った汚れ無き一時だから、憧れるようになる。

本当の立場を知って近づけるようになると、寧ろ安心する。

本当に伴わせるべき痛みなのだろうか。

こうじゃないといけないと思って、わざわざ自分から引き寄せているような気がする。

独り善がりで言い訳がましくて、もっと楽に済ませる道があったかもしれない。

求めていたものと違っていたら、今度こそは、とまた同じ失敗を繰り返してしまいそうだ。

苦しい時間の中にも当初憧れたような大事な一時があると思うから、思い通りにいかない不満でその一時を見逃してしまうのは勿体無い。

綺麗所だけ切り離したような大事な一時の感性を拾い損ねていた事実が継続の習慣を遠ざけるならば、何かに取り組み没頭できる有り難みというのがいかに技術の向上に貢献するか、出鼻を挫かれるストレスでいつまでも見失っているわけにはいかない。

人もそうだけど、見え方次第なんだと思う。

ただ取り組めば滞り無く捗るわけでもなく、心構えというか、解釈というか、同じものを見ていても、全く異なる印象を抱く場合があるから、不都合な状況に対する認識を改めなければ全く先に進めなくてもおかしくない気がする。

こうやって納得できないことを言い訳っぽく言葉でこじ開けると、絵に対する気持ちも解放されて、画力や技術的な向上以前に、簡単に済ませられるはずなのに今まで億劫で取り組めなかったことに着手できる傾向が、技術の向上自体に対する認識の誤りに気づかせてくれる。

人の肉体は脆弱で、揺り動かされ易い精神は言語による緻密な調整を余儀なくされる為に、ほんの僅かな歪みさえも継続の採算を損なう動機付けとなって、悪くもないはずの合理的な判断に帰結させる。

諦めたり、後回しにしたりして一時的に避難する判断自体は正しくても、際限無く状況が滞れば、その判断の正しさが歩行を妨げる強固な壁となる。

挫かれ易くていつまでも着手に至らないくらいなら、多少の重荷を背負ったって意識を傾け、注がなければならない対象があるはず。

誰とも知らぬ競争者との遅れは気になっても、それくらいで被る程度のオリジナルなら譲ってしまえばいい。

時間が無い中、時間をかけて、忙しなく時計の針を進めれば、いつか済ませておいて良かったと思える修正の土台が、目の前に、足下に築かれているはずに違いない。

別に確証なんて要らない。

疑う余地があったって信じられる天秤の不均衡が、挑戦する取り組みの面白い所だと思うから。

これくらいで、丁度いい。

絵を描くこと・6

2017年 06月13日 14:12 (火)

自分の描きたい絵って何だろう?

描きたい絵が全く無いわけじゃない。

どうしても描きたい絵があるわけでもない。

描きたいと思える絵は技術の向上に導いてくれる。

描きたい絵を描く為に技術を向上させるのではなく、技術を向上させる為に描きたいと思える絵が存在するのだろうか。

上達のきっかけに過ぎないのだろうか。

描きたいと思える絵から当初の輝きを失って、技術の向上に利用され、関心の対象が絵から技術に移り変わり、まるで活力を吸いとられるように逆流して、目的は手段となる。

技術の習得は時間のかかる行為だと思いがちだけど、そもそも技術は作業を滞らせない為の、捗らせる為の助力であって、今まで引けなかった線を嘘みたいに間延びさせる。

描きたい絵なんか今は無くてもいい、技に導かれ、引き延ばされて辿り着ける場所を見てみたい。

見て覚えて忘れない内に描き写す媒介となり、すぐさま思うがままに再現できる汎用性こそ、今に養うべき技術なのかもしれない。

絵を描くこと・5

2017年 06月11日 14:37 (日)

人の表情を描こうとして、描きやすいと思える表情を選んで拘ろうとすると、不自由な心境に至る場合がある。

自分に有利な状況を呼び込む機転も大事ながら、仕事と同じで好都合な状況ばかり選んでいたら、反ってどうにもならなくなる場合も少なくない。

同じ対象に固定し、何度も繰り返し反芻して、修正、誤差を軽減して歪みを収縮する。

この固定・反芻・収縮の働きを妨げない為にも、対象を漠然とさせないように気をつけていたつもりが、心に不自由を被らせるような思わぬ弊害が生じていた。

広く深く対応に追われるのが億劫だから対象を狭めて残り少なさに専念できるよう配慮したのに、見据えるべき全体の内の僅かに勢い余って、継続の採算を損なっていた。

自ら可能性を狭めて、選べる選択肢を少なくして、使える道具を限らせてしまった。

こういうことがあるから、言葉の表面的な矛盾には囚われないようにして、言葉の不完全さを認め補うことで矛盾しないのだと、自分に言い聞かせる必要がある。

自ら課題の負担を広げられる動機、今のままじゃ満たされない気持ち、言われて仕方無く、納得できないまま無理矢理進めるよりも、没頭したいと思える何かが継続の要となる。

行く先々が自分の力になる。

こんなにも力に恵まれていて、その力を還元できる対象が見つからないのでは、とても割に合わない。

力は流動する、その波に漂っているに過ぎない、そう思えばいい。

力の代謝、円滑な新旧入れ替わりが心身の強張りを緩め、風通し良く平常心を保たせてくれる。

力にしがみつき、内に抑え込んでいては、決して自由になんかなれない。

常に図らずも逆流する情報を解き放つ、相殺の対象が欠かせなくなる。

力はあり余っているのだから、多く取り入れようとしてはいけない。

必要な時に、拾って投げつけてみるくらいが丁度いい。

道具は揃え、備えておくだけでいい。

拘り過ぎても仕方がない。

絵を描くこと・4

2017年 06月11日 13:48 (日)

四角い箱、雛形。

後ろめたく感じるもの。

未熟を思い知らせるもの。

目を背けてはいけない。

原形を蔑ろにしない。

空間の彫刻。

修正の土台を築く。

稚拙なら改めよう。

このままでいたくない。

奇をてらうのではなく、形の必然性を認め直すのだ。

溝があり、淵があり、高さがあり、重さがある。

細やかな細部を拾って、繰り返すのだ。

絵とは力の汎用。

一度時間を費やせば、何度だって使い回せる。

途方もなき道を、飛躍的に縮めてくれる。

不慣れ故の認識を、改める必要こそある。

壁を取り払う。

塞ぐもの、遮るもの、妨げるもの。

今が今しかない、尊い拙さの希釈。

最初こそが、壁なのだ。

絵を描くこと・3

2017年 06月11日 13:29 (日)

二次元を極める。

そうしなきゃいけないと思った。

その必要に迫られた。

立体を、奥行きを、陰影を、平面に表現する技術が必要だ。

立体を把握する先入観が、線を引く際に邪魔になる時がある。

平面には奥行きと呼べる奥行きなんて殆ど無いのだから、親指を型どる円柱さえ描画の妨げになる。

侮っては、いけないのだろう。

いつも侮って始まるのに。

だから無神経を顧みて感謝する。

扉は平面、奥行きなんて見えやしない。

入門の恐ろしさ、もどかしさ、不慣れに惑う途方もなき奥行き、一挙に押し寄せる課題。

道を狭めて、消化すべき課題を絞り込む。

一挙に見合う負担の量に調整するのだ。

常に平面を見据えるのだ。

奥行きは表現できる。

二次元の世界で、平面の感覚を養う。

奥行きなんて、上っ面だ。

絵を描くこと・2

2017年 06月11日 13:04 (日)

角がある、幅がある、比率がある。

決まり事がある、占有率がある。

把握すべき数の項目がある。

維持すべき均等な幅がある。

コンパスで円を引くように、均等な幅の限界を決める針が軸足となる。

角の数を把握することは蔑ろにしやすい。

絵を制御するには時に欠かせない項目なのに。

絵を構成する細部の特徴。

その間取りは予め定められている。

遵守すべき本来の形に背いて、絵の完成に近づけるべくもない。

そぐわないなら、いっそ抗わない。

行ったり来たりしてもいい。

目を離している間に、状況は変わっているかも。

逆に言えば、状況の変化に必要な時間だったのだ。

注がれる意識を散漫に、必要に応じて対応できる割り振りが理想的だ。

滞る時間さえも、利用するのだ。

絵を描くこと・1

2017年 06月11日 12:42 (日)

限られた僅かな線で細部を実現する。

その僅かな線が書くべき線の全て。

終始、必要最小限を繰り返す。

無駄な線を見極めて、余計な復帰の規模を軽減していく。

見る者の先入観を利用する。

人の力を借り、負担の全てを背負い込まずに委ねる解釈を見つけなければならない。

どうしたら状況を覆せるだろう。

あぁ、こんなに簡単な方法だったか。

顔の内側にある、確かな頬骨。

見る者は分かっている。

限られた、僅かな線を探そう。

こんなにも緻密に、ではなく、これだけで済ませる、でいい。

見えない無駄を省いて、残りに専念するのだ。

削ぎ落とされなかった線が、線の全てではない。

無駄を知ることから始めてみよう。

残すべき線が見えてくるはず。

痛み分け

2017年 06月03日 23:35 (土)

心の底から諦めると本当に必要なものが見えてくる。

時間に追われながら、常に時間を欲しがって、見失って、怠っていたことに気づく。

同時にはできない二つのことがあることに気づく。

時間を欲しがる悪癖は、なけなしの猶予さえ活かせずに日を跨ぐ。

また長い時間拘束されるのだと思って、断続的に訪れる自由への渇望が恐怖へと変わっていく。

自由に使えるはずの時間を一つの目的に費やす思い切りが躊躇われて、今、この周期の波を掻い潜る必要に迫られている。

待ち続けた自由の時間を次の不自由に怯えて佇むだけの暇にしない為には、僅かで済ますべき進捗を確かめておく必要がある。

それこそ言葉の意味や詳細を辞書で調べて使えるようになるように、一度時間を費やして習得した技術は何度でも使い回せるようになる。

そのパターン、傾向、模様を増やす行いが肝要なのであって、辞書で言葉の意味を調べるような行為に、それ以上の大きな見返りを求めては不釣り合いな取り組みになってしまう。

ある程度、予め時間を費やさないと直ぐに扱えるようにはならない技術が殆どだから、即戦力の結果が求められる現場で必要な技術を培う為に自ら徹底して猶予を奪い去る必要も無く、他者の判断に根拠を委ねて自ら習得の機会を放棄する必要も無い。

迅速な着手を実現するには予め詳細にしておかなければならない必然的な根拠がある。

速さを実現する為の遅さは切り離して考えないと、新たな戦力の定着を容易に見込めなくなる。

与えられた条件下においても自分の戦い方を全うできるか否かが、結果を導く成否の分かれ目になるのだろう。

必要なのは慣れと不慣れの主体を仲介する伝達の媒体、詳細な情報を一目で判断できる表示の便宜を図るということ。

オリジナルのマニュアル化こそが技術の完成であり、誰かにしか使えない技術を皆で共有するという目標に他ならない。

だから限られた時間の使い方を考える行為は誰にとっても欠かせない、有益な効果をもたらす取り組みとして期待できる。

それで辿り着ける場所が途方もなく退屈な日常だったとしても、独り善がり恩着せがましく振り回される一喜一憂に人生を、歴史を委ねるくらいなら、少しくらい軌道修正して快方に向かわせる取り組みがあったって、いいんじゃないかと思えてしまう。

問題を食い物にしないと成り立たないような経済なら何が問題なのかって話になってしまうから、もう一人一人が強くなればいいのだと思う。

見失わない強さがあるのなら、手を加えるような問題なんて始めから何も無いのだから、元から人に備わっている能力を用いるだけでいい。

それでも、なまじ強い人の精神力が行動に変化を及ぼすために募らせるべき負担を受け流して逃がしてしまうことがあるから、そんな人の強さにつけ入る狡猾な弱さを見過ごさず、痛み分けして対処に専念できる負担の均衡を見つけられたなら尚更いい。

人一人だけでなく、集団生活においても負担の均等化が実現できるなら余計な軋轢も生じ得ないようで、限られた手段で大きな結果を手繰り寄せようとする魂胆は、時に痛み分けを遠ざけて利害の一致を見込めなくする場合がある。

異なる向上心の摩擦が不和を呼び、双方の足枷となってしまっている。

限られた時間で結果を出すこと、こんなにも時間を奪われながら、与えられてもいて、僅かな進歩を大きな進歩として考えられる達成感があるなら、これがきっと弱者の戦い方として間違いは無いのだろう。

脆弱な身の丈を偽ってはいけないと思いつつも妙な意地が働いて無理をしてしまうのは、どこまでその身の丈を守れるのかを確かめたいからかもしれない。

延いては限られた時間の使い方に同調し、負担を均等に、納得して先に進めるだけの進捗を見極める判断力が培えるということ。

時間が多いに越したことはないのだけど、この周期に体を馴染ませることこそが本当は自分の成し遂げたかった習慣化かもしれないから、できないまま放置するよりは、限られた猶予の環境に身を置いて目的を達成する力を身に付けた方が、自信の無い誰かが共感してついてきてくれるような、そんな気がした。

好きなことができるほど幸せな環境じゃない、自分はまだ幸せな方かもしれない、境遇の不利を蔑ろにされたまま夢を追いかけるなんて、自分には絶対に無理だ。

誰かにしかできないことなんて無いと信じたくても特別であることを追い求めて、皆で共有する事態に至れば急に詰まらなくなる。

そんな取るに足らないと思っていることが一筋縄ではいかないから、今こうして、自分の人生を奪われてもいいと思える趣を探して、切実に生きる意味すら見出だせない人生の時間を奪われている。

だからこれからも、道すがらゴミを広いながら、通路の整然を確保するように、時間を作っていけばいいと思う。

遠くの結果だけじゃなくて、もっと近くの自分自身を制御しないと、道から逸れてしまう。

僅かな誤差が規模を巻き込む程に目的地から遠ざけるなら、この誤差を生まない緻密なコントロールだけに専念すればいいということになる。

結果を求めすぎて見失ってはいけない基本とは、そういうことだと思う。

時間の使い方と細部の調整、すべからく、専念すべきことは多くは無い。
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