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罪滅ぼし

2017年 05月28日 23:05 (日)

罪を気負うことを罰として、罪と罰がコインの裏表なら、コインとは罪悪感となるだろうか。

守り通せる見込みの乏しさ故に愛しく感じるならば、愛する行為自体が罪と罰の裏返しになるだろうか。

目を背けた罰、いつも通りに過ごせると思い込んだ罰、知らなかったじゃ済まないなんて、本当は認めたくはない。

罪を気負うべきか否かについて、常に苛まれているわけじゃないし、どちらかしか選べないわけじゃない。

どんなに間延びしたって失う瞬間は訪れて免れない必然にあり、何気無い日常の有り難みを最大限に保とうとしたって失う瞬間に勝る有り難みなんて無いのかもしれない。

大事と思えば大事、そうと思わなければそうでもない、失われやすい何かを守りたいと思う気持ち自体は浮き沈みしたって失われはしない。

自分にとって何が大事かを決めるのが自分の判断の匙加減に拠るなんて、まるで独り夢の世界に生きてるみたいに、周りからは無関心な問題に映るのだろう。

ありがとう、という感謝の言葉は、簡単に手に入れるべき何かを遠ざけられた苛立ちから発する、皮肉混じりな物言いなのだろうか。

世界は変わらないし、変わらなくてもいい、あるべき全てが備わっている、ありのままの姿、至近距離で見失う大樹の全容。

なんでこんなものを正そうと思ったのか、大事なものを守り通せるような世の中であってほしくて、そう思ったんじゃないのか。

自分の人生は自分のものであってほしいから、共感するなら人の人生だって奪いたくないし、奪われたくない。

求める気持ち、欲しすぎると憎らしくて、奪われていると思って奪い返したくなるんだ。

周りを敵に回し、更に守り難くして、人の中にある力を使えなくなれば、後はもう遮られるしかない。

好奇心は協調性との折り合いが肝要だって時々思い出すけど、切り開かれた道は再び閉ざされないように手入れを施さなければならない。

脆弱な人体に長く平常心を保たせるのは思いのほか容易なことなのかもしれないが、常に損なわれやすく、常に補われるべき感性であることは留意しておく必要がある。

自分が誰からも期待されてないと思ったら頑張る理由さえ無くなってしまうし、そもそも頑張らなかったら期待される理由だって育めない。

自分なんて、なんて思ったら時間を費やして向上の糸口を掴むきっかけを自ら失いかねないのだから、今の自分なんて期待されてなくて当たり前、後になって今みたいに気後れることの無いように、目下見込みなくても動じずに続けられる平常心を取り戻そう。

こんなに簡単に済ませていいのだろうかと思うものほど誰も着手していない場合があるから、簡単故に時間を多く費やせる合理性を見逃さずに、明らかに分かることから片付けてしまえばいい。

もう中途半端な結果を残したくはないから、妨げとなる足枷は予め全て取り払っておかなければならない。
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過ぎ去りの緩急

2017年 05月21日 20:40 (日)

不慣れな環境だと、ちょっとした人間関係のほつれも煩わしくなる。

訪れてほしくない時間。

早く過ぎ去ってほしい時間。

時間の経過に対する思い入れが極端に変化すると、その緩急が身を強張らせ、ますます芳しくない状況を引き寄せる。

緩急の変遷に至る狭間はどこにあるだろうか、根源を突き止めてその一点に力を注げば、陰鬱な緩急の時間帯も和らぐ気がした。

訪れてほしくないと思う根拠。

早く過ぎ去ってほしいと思う根拠。

共通の根拠。

問題を遠ざけてやり過ごす方が、遥かに苦難の道に思えて仕方ない。

緩やかな時間帯を手に入れるには、失敗したって問題と向き合い、足りない何かを補うしかないんだ。

限られた手段の行使で劣勢を覆す、そんな遊びに興じればいい。

目先の問題は、些細な問題だ。

経過

2017年 05月19日 23:38 (金)

ダイエットですが当初の97kgから現在は94kg弱で目標の90kgまであと少し。

当初と比べれば遥かに動きやすくなるはずなので、ひとまず目標達成したら現状維持に努め、絵描きの技術に専念します。

まとまったじかんがあった時は毎日走れていたのが、最近残業が増えたせいかおかげか、走れなくても減量傾向にあります。

身も蓋もないですけど、体重は身を置く環境によって決まるような感じさえあります。

書店の文庫本コーナーでダイエットに役立ついい本も見つけられて、食べるダイエットにシフトできつつあるのです。

走る楽しさも確かにあるし、肺の下辺りに負荷がかかると少し引き締まったような手応えも無くはないです。

キャベツや煮豆を食べたり、脂肪を分解するお茶とか乳酸菌カルピスとかに寄りすがって、以前は毎日飲んでいた缶コーヒーや炭酸水を控える心境に追い詰められると、同じ苦しみを繰り返したくない気持ちが食べ過ぎを抑えてくれるようです。

ダイエットとは食欲をコントロールする行いなのかもしれません。

体重計の数字よりも少し腹回りが引き締まったように感じるなら、それを確かな効果の手応えとして受け止めた方が報われる見込みがあります。

お昼に食べる菓子パンのカロリーや脂肪分の表示とか、人によっては聞きたくないのも分かりますけど、やっぱり気にするようになってしまいます。

目安としては200キロカロリー?台で抑えるように商品選びしてますが、お酒なんかは意外とカロリー低くて気を許しがちです。

体重は減らせば減らすほど動きやすくなって、更に減らしやすくなるような感じがありますね。

絵は新しい目標が見つかって、それに伴い描きたいと思っていた絵も描くきっかけを得ることができたので、確保できる時間は少なめですが、当初よりは悲観する理由も無くなってきています。

少し本命から逸れていても目的があった方が絵が上手くなる実感がありますが、まだ言うほど絵が上手く無いので具体的にどんな目標を見つけたのかは気恥ずかしくて言えません。

時間の少なさは致命的な言い訳にもなりかねませんが、時間が無いからこそ失敗しても仕方がない、無理がないと考えて、逆に失敗を恐れないで取り組める確かな動機もあります。

以前持て余していた時間が絵を描くことで失ってしまうことに勿体無さを感じていた自分の素直な気持ちと向き合って、好きだからどんなに苦しくたって続けられるわけじゃない、ほんのちょっとしたつまずきで安易に挫かれる身の丈の脆弱を上手く制御しなければ続けられないのだと戒めています。

それでもやっぱり時間が欲しい。

描く時間が少なくなって、結局は持て余すであろう時間を渇望している。

だから前よりも厳かな線が引けるようになったのかもしれない。

曖昧な線をいくら重ねても際限がなくて、ほんの一回の清書が今後もずっと使い回せる技術の獲得に至らしめたような気がした。

身を置く環境が意にそぐわなくて、苛立っても長い時間に乗じて苦しみを募らせるだけだから、絶え間無く押し寄せる波を捌き凌ぐことにした。

自分の力で順応したんじゃなくて、まるで屈服したみたいに、そう意識を向かわせざるを得ないような、そんな惨めで空しい、およそ自分の意思なんて関わり無い客観的な事象に帰結してしまった。

自分と他人とで、一体何がどう違っているから、人と違う道を選びたくなるのだろう。

追い詰められて調整を余儀無くされるなら、始めから自分の意思は必要無いのだろうか。

どうせ今の自分に、みくびりながらも身を置く環境に後になって感謝するしかないんだ。

大勢に埋もれぬ、少数派の、特殊な、ありのまま普通の、本物かつ紛い物でありたいから。

煮え切らない、どっちつかずの自分でもいい、そんな均衡を保ったままの自分で結果を出すことに意味がある。

滞りの畏怖を力に変えて、少しずつ突き進んでいこう。

情報

2017年 05月19日 22:04 (金)

欠けたパズルのピースを集めるように補われる情報がある。

用途を模索する段階から始めようとして無造作に仕入れる情報がある。

とにかく何でもいいから材料を集めておけば、後で不完全な何かを目の当たりにした時に、手持ちの材料で補えるかもしれない。

活かすべくして仕入れる情報。

だから報われるのだろう。

欲しい情報がある。

足りない何かを補いたい。

虫食い算の解を求めるような情報。

いつもそんな感じだった。

自分で情報を集めて、活かして、報われようとする、そんな自発性が欠けていたような気がする。

似ているようで違う。

欠けた情報を補って満足するのと、自力で報われようと活かすべき情報を仕入れる行為には隔たりがある。

慣れの油断と不慣れの初心とは、どこか似通っている気がする。

根底の心構えを見失ってしまっているのかもしれない。

焦りが生じている。

もっと建設的な思考に傾かなくては。

早く楽になりたい。

直ぐ済ませようなんて思ってはいけない。

急がば回れとか、初心忘るべからずとか、つまりはそういう話かも。

不慣れな他者を巻き込みさえできれば、勝つきっかけなんて別に何でもいいのかもしれない。

勝ち負けに拘らないつもりが、勝つことにも、負けることにも、なんでこんなに拘ってしまうのだろう。

本当は取るに足らないことだって証明したいから、続けているんだ。

誰かを怯えないように導けるなら、だからできるってことを証明しなければならない。

そうやって逆に溝を深めてしまう事態も無いとは限らない。

勝負は既に決まっているから勝負なのだから。

僅差なら勝負になる、大差なら勝負にならない、採算の僅差は直ぐには際立たないだろう。

人って何?

何がそんなに問題なの?

最近似通った言動を繰り返しているような気がする。

また悪い癖が出た。

そろそろ締めますね。

ごめんなさい。

冗長

2017年 05月18日 12:44 (木)

たまに自分で投稿した記事を読み返すとブログにしては少し話が長いなーって思います。

なんとなくこれくらい書かなきゃと思って書いてるわけでもないですが、書きながらの方が頭の中を整理しやすくて、文章を書くこと自体が文章を作る手助けになっている感じです。

四コマ漫画で例えると、起承転結の起の部分で四コマ使ってしまうとバランスを取るために合計十六コマになってしまうみたいな感じで、適当な落ちを着かせるのも一筋縄ではいかなくなっています。

それでも読んでくれる方には本当に感謝に堪えませんが、自分の気持ちだけで一杯になって読み手の方をおいてけぼりにするというのはまさにこういうことなのかなと反省しています。

もう少し読むのに億劫にならない体裁を意識して、読みにきてくれる人が読んでくれるまでのきっかけを大事にしたいです。

自分で安易にチャンスを逃さないように、慎重に、簡潔に言葉を選べたらなと思います。

共感

2017年 05月13日 18:03 (土)

新しい職場に勤めると以前のようにはいかない感覚がある。

その場に馴染むことが、遅かれ早かれそうなるとしても、なかなか解けない氷みたいに上手く捗らなくてもどかしい。

以前の職場とは、既に慣れ親しんで、解けた氷のように融和し、ある程度の信用とか実績を得て認められた状態を表す。

今どれだけ焦って元の慣れた状態を取り戻そうにも、日を跨がず今日中に訪れる状態であって欲しいなんて思うべきではないのかもしれない。

みんな同じように耐え凌いで実現した習慣化を直ぐにでも手に入れようとする魂胆は、まるで自分だけ苦しい時間を免れて甘い蜜だけを味わおうとする姑息な印象を与えてしまう。

対価も支払わずに楽な部分だけを手に入れようとする行為に浅ましさがあるなら、わざわさ苦しい時間を凌いだ自分の頑張りは何だったのだと、受け入れられない心境を築かれてしまう。

勝手にやった独り善がりな頑張りだと一蹴するか、同じように慣れ親しみの無い立場で間違えながら馴染んでいくか、安定した心境を取り戻す意味では二つに一つの選択肢となる。

互いに相容れない、見解や価値観の相違だと考えて諦めるのは簡単なようで難しかったり、難しいようで簡単だったり、その時その場の判断に委ねられて先に進んでしまうだろう。

相手が凌いだ苦しみと、それに由来する頑なな意思や安易に譲れない気持ちを理解できないで目を背けたまま、理解し合えないと決めつけて先に進むのはどこか危険な気がして選べないことがある。

本当に相容れない人間なんているのか、いつでもできそうな判断を先送りにして、時間のかかる面倒なことこそ試したくなってしまう。

解けない氷は一日では解かせないから、焦燥の摩擦さえ伝わらずに身を焦がし続け、結局は意図せぬ時間の経過に救われて取り戻したかった状態を取り戻せるようになる。

どんな取り組みにも通じていて、できるできないなんて直ぐには判断できずに、最初しか続かないはずのもどかしい時間の停滞に憂慮するのは少し勿体無い部分もある。

少ししか歩み進められないなら好都合、他に割きたい時間だって少なくはないし、ほんの少しの時間で済むからこそ専念できて、平静を保つ折り合いがつけられるようになる。

どれだけ取り組みに従事できる平静の装いを保てるか、平常心を損なわず、自分を見失わないでいられるかが継続の要となる。

費やした時間の違いが価値観の相違に繋がるなら、その危うさを取り除く為にできることは価値観の共感に導くことくらいだろう。

どっちの立場であれ、対立の要因を知って呆気ないような動機付けができれば、優劣に捕らわれないで安穏と過ごすことができるはずなのに。

世の中で生じる問題を小競り合いとするなら、その犠牲となる命の尊ささえも軽んじることになるのか、絶え間無く押し寄せる波の対処には使役する手駒の裏切りというリスクが潜んでいる。

条件

2017年 05月06日 14:08 (土)

目的を達成に導く為に遵守すべき条件がある。

それは二つから三つの大まかな括りの決まり事に限らず、日常生活の節々で緻密な調整を施すべき項目となる。

温度だったり湿度だったり速度だったり圧力だったり、万全な体調管理も必要な資材が足りているかどうかだって、物事を滞りなく成し得る為の基本的な決まり事で、自分の裁量で設定すべき条件となる。

維持費を節約したり、無理の無い姿勢で作業を行うだとか、身の回りの環境を整え、常に自分に言い訳できない状態を呼び込む。

自ら設定した条件が適切な数値であれば時間が経過するほどに望ましい過程が構築され、逆も然り整えるべきを整えず当たり前のことを当たり前にできないと継続の採算を損ない、取り組みの着手にさえ億劫になる。

悪い状態を放置すれば言わずもがな生産的に好ましくない品質が生じ続け、時間と資材を無駄にした大きな損失へと繋がっていく。

適切な条件を遵守し、維持することができれば自ずと事態は快方に向かっていく。

同じ問題を共有しているなら、設定された最良の状態に復帰する為に、人がどういう状態に辿り着きたいかを思い浮かべて行動に移すことが組織的な連携を促す気配りになる。

遵守すべき条件は指折り数えきれる項目に留まらず、自分を目的の達成の為の継続に安定して身を置かせる決まり事の数々は、まるで平衡感覚を保つように束の間に繋がる平静の装いを可能とする。

どれか一つでも損なわれた状態では万全な条件の遵守に支えられた継続の動機も見失いかねず、そんな緻密で脆弱な構築によって保たれている動機に強靭さを求めてはならない。

自分の目的を達成したいなら、設定すべき条件を遵守して、維持する。

それすらできないと非効率に身を委ねて行動に移せない判断の正しささえ認めることができずに、断念に至る動機を自ら覆い隠してしまう。

何が自分にとって最良の条件になるかは具合をみながら焦らず決めていけばいいし、どんなに先行きが漠然としていても表面から剥がれ落ちて目先に舞い降りた僅かな手掛かりを携えて先に進むしか、実際他にできることなんて無いかもしれない。

今自分が置かれている状態こそ間違いではなかったと思えるように、歩み始める為に余計な重荷を減らす裁量がどこにあるのか、見極める習慣が不可欠となる。

今より少しでも楽になれば諦める理由もなくなってしまうのなら、改善に至るまでの非効率な事態を凌いだ身の丈の脆弱こそ労う必要がある。

価値

2017年 05月05日 12:14 (金)

連休に東京上野の西洋美術館に足を運んだ。

在学中に一度訪れて以来で、一つでも多くの有益な情報を持ち帰るべく目を凝らしていた。

私生活で選んだならば、こんなありふれたものをわざわざ面に再現して誰が目を見張るんだと思っていた形さえ、忠実に表現しようとする姿勢が絵から見受けられた。

とても絵を描いていられそうな時代背景でもなさそうなのに、ここまで安易な妥協無く目の当たりにしたものを再現できる取り組み姿勢に、少なからず違和感を覚えてしまうほど自分の絵に対する姿勢を改めざるを得なかった。

根本的に大きな思い違いをしていると認めて、本当に形骸化しているのはありふれたものに対する自分の認識ではないかと疑っている自分がいる。

見たままを表現することがこうまで一筋縄ではいかないとは、展示されている絵が画家のたゆまぬ研鑽の、氷山の一角に過ぎないことは言わずと知れたはずなのに、ここから拾える何かがあると目を凝らさずにはいられない。

何千回も何万回も見過ごしてきた形の意味に敬意を表さないと、形を忠実に再現できないような気がして、写真に撮って収めた画面越しではなく、今自分が実際に目の当たりにしている立体こそ奥行きの無い均等な面に表さなければならない。

形が人に可能とさせる利便性を把握しなければ、意味のなさない、生きる力が見受けられない絵になってしまうかもしれない。

見たままを描くとは際限無く猶予があるようでは寧ろ損なわれる感性があり、今しか見れないもの、今しか描き写せないもの、目先の小さな形に集中して短時間で描ききることが絵を描く能力の維持に繋がる唯一の手段になる。

形とは人体の臓器に似ていて、部分的な役割を備えた一つの臓器自体は人体としての意味を成さず、だけど人体を機能させる為に欠かせない役割の一つであることは確かで、そんな重要な役割を不完全に備えたまま動かすと反って消耗を著しくしてしまう。

だから全ての役割が備わるまでは下手に動かすべきではないし、不完全な状態で動かして思い通りに動かない煩わしさがあっても見え透いた結果だと思えば悲観する理由もなく、満足に備わらぬまま動かしてみたいと思う必然性だって望み通りの手応えを得たいが為に陥る焦燥の弊害に過ぎない。

それだけでは意味が無くても全体の機能に不可欠な形の形を改めて認識することから始めて、つまらないと懐疑的な違和感を抱く隙もなくありふれたものを再現できるようになる必要がある。

ありのままに描き写す行為のつまらなさに素直になって、描いていて楽しいと思える動機を備えるべきだと思う。

好きだから続ける、嫌になったから続けない、偽って続けられるほど人は強くないから、断念の根拠さえ、失敗さえ世に実在する客観的な正しさの一つだと思って、その結果を避けるように立ち振る舞えばいい。

諦めざるを得ない動機だけが現実的な厳しさではなく、現実を見据えたつもりで目を背けている可能性もまた現実なのだから、現実を見ないで夢の世界に住んでる人が特定の人に限られるとは一概に限らない。

高名な画家は絵を描くことは模倣だと言うが、確かに自分を取り巻く環境こそが自分を形作るものであり、独自の力なんて存在しない、常に何かの影響下にあって染まり、外部に浸透していく媒介に過ぎないのだと認めざるを得ない。

行く先々、常に何かに支えられて生きてきた。

自分の力だと思っていた要領も見識も本当は受け継がれてきた力の恩恵に他ならず、自惚れや、実際には何も成し得ぬ無力が後ろめたくて、自分を保つ為に無理に差別化して思い通りの手応えを得ようと、今でさえ必死になってる。

できることもできないことも真相は取るに足らないと認めたい一方で、勝つこと、負けること、何をそんなに必死に拘ってしまうのだろう。

どんな立場であれ強くなれば弱者に時間を費やして浪費する事態が恐ろしく思える客観性に導かれるけど、それは世界に元から既に在り続けている潜在的な仕組みに過ぎず、人に時間を割けなくなるくらい無価値に見えても、やっぱり考える人の尊厳を蔑ろにしていい理由にはならないはずだ。

人は何しても自由で、罪を犯せば秩序を保つ為に仕方なく罰を与えて、それでも選ばざるを得ない気持ちの尊重なら損得勘定次第で犯罪だって厭わない。

だったら悪の人格を顧みて、仮設の法に寄り掛からないで済む手段を模索した方が早いと思う。

既存の経済を潤す為に切実な問題を食い物にして有利な命を繋ぐのが改めるべき現状なのか、主義の型に捕らわれぬ価値観を共有できればいいのに。

人の本来の弱さが蔓延る腐蝕の根源なのだから、人の弱さに端を発する強かな狡猾ささえも慈しまなければならないのだろうか。

歴史は短いから繰り返すのか。

影響

2017年 05月03日 11:55 (水)

ようやく絵を描ける自由な立場を得られながらも、描きたい絵すら定まらずに、描きたくないとすら思う自分がいる。

絵を描きたくても描けないで、絵を描くことの素晴らしさに思いを馳せていた嘗ての自分は、どんな絵を描きたいと思い描いていただろう。

目が覚めるような鮮やかな色合いで人の心を一瞬でも奪える絵があることを知っているけど、それはもう自分の絵なんかじゃない。

その道に慣れ親しんだ他者によって描き加えられた絵は、もう自分の手によって完成された絵ではなくなっていた。

なのに絵を描きたいと思っていた時はいつだって、その絵がよぎって、その絵に憧れて、その絵を目指したいと思う確かな感情が燻っていた。

色を乗せられる形が欲しくて、形を再現する線が欲しくて、理に合った構図を求めて、時の経過さえ体現できるような絵を導き出したい。

絵を描きたいと思わせる根拠はいつも同じで、これは自分の力に依らず絵の完成を導き、支えられてしまっていた過去を悔やみながら、やり残したことを済ませにいく試みに過ぎない。

これから求めるのではなく、既に手に入れてあるものを目指して、どうしたら絵ならではの色彩で目に見える形を再現できるのかを模索したい。

多少みくびってかかる姿勢も時には重要で、間違えがあるなら自ずと気づかされて改める展開になるだろうし、唯一を求めて失敗すまいと意気込むばかりではありふれたものを見過ごし、或いは煙たがって紙面に再現する気力さえ生じ得ない。

一枚の絵を際立たせる為、或いは紛らわせる為に多くの絵を必要とするなら、一枚の絵に拘って他の絵の着手に億劫な気持ちも失せ、もっと気軽に絵を生み出せる装いが保てるかもしれない。

絵を描ける時と描けない時があって、後者の状態を言葉でこじ開けて前者の状態に至らしめるのが好きで、できることが一つずつ開放されていくのが無理の無い着実な進歩と利害が一致していて好都合であり、もしかしたらこれが自分のやりたかったことなんじゃないかとさえ思えてしまう。

知れば知るほど絵を描くことは魔法のようであり、取るに足らない詰まらない仕掛けのようにも感じられる。

奥が深いもの、複雑なものは時間をかけて解き明かせば得てして単純に考えられるものだから、単純が寄り集まって複雑になった構造に際限無く時間を費やす浪費も避けたいし、難しく考えるなと急に言われても不慣れに回数を重ねられない内は無理な話だということも分からなくはないから、凝り固まった時間は専用の溶剤に浸して放置しておくような効率的な機転も時には必要になる。

今自分にできることとできないことの見極めと優先順位が肝要であり、時期尚早に取り組みの時間が乗じる負の採算が常に諦めの根拠となっている。

体は頭以上に素直だから、何が良くて何がいけないかを実は最もいち早く気づいて判断してくれている傾向にある。

自分の頑なな意思があっても、回数を重ねた失敗の傾向を避けるようになれば、それだけで達成に導かれる呆気なさが今後も活きる運びとなる。

見た目の影響力の大きさに怯えてしまうことはよくあるけど、それが詰まらない些細な要因で引き起こされている可能性を考えると、そんな小さなことに膨大な時間を費やして無駄にする事態こそ恐ろしくて、本当は小さなことに勢い余って枯渇するこの恐怖こそが影響力の正体なのかもしれない。

世の中が不慣れな他者を巻き込むハッタリでできているのなら、相手の得意分野に踏み込んで呑み込まれては継続の動機さえ見失ってしまう。
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