FC2ブログ

02月 « 2017年03月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  » 04月

スポンサーサイト

--年 --月--日 --:-- (--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

構築

2017年 03月31日 00:00 (金)

技術的に未熟で今すぐには取り組めないことだけを諦めたつもりが、時間さえかければいずれは取り組めるようになる前向きさ自体も巻き込んで諦めてしまう自分がいた。

大抵は、取り組みたいはずの着手に億劫な理由は取り組む順番を間違えてしまっている点にある。

なかなか手に着かないのは比較的に難しくて飛躍した段階の取り組みに拘っているからであり、才能云々を嘆くより先に、取り組みたくても取り組めないという行為を選択した客観的な正しさを信じることから技術の向上は始まるのだと思う。

基本的な下積みの構築はどうあれ、結果の出し方というのは適切な配分で負担の波を凌ぐ継続力と、捌くべき負担の対象を絞って拡張された余力を余すこと無く注ぎ込む集中力の二通りがある。

特に配分の仕方が対照的に正反対の両極端で、長所の強みを自負できる一方で短所の克服においては後ろめたさを拭えない間柄にある。

見方によっては、長く続けられる継続力も安易な繰り返しに終始する臆病な停滞とも見受けられ、群を抜く著しい結果の実現に至る集中力もその場限りの姑息なハッタリにしか映らないかもしれない。

どっちかを選ばなければいけないし、どっちができたからといって自分だけが結果を出せる特別な人間になれたことにはならない上に、そうした実態にそぐわない驕りや自惚れは安定した結果の実現を妨げる足枷にしかならない。

今まで、自分のやりたかったことの為に時間を作れなかったノロマはまさに自分自身のことで、一歩だって前に進めちゃいなかったから、もっと具体的に、少しでも具体的に伝えられるように取り組みを変えていかなければならない。

自分は天才なんかじゃないから、誰もが通る道を通って、蔑ろにして見過ごしていた基本を取り戻しながら、既に開拓された道筋であっても、まるで初めて発見されたことのように、遅れなんて気にしないで一つずつ自分のものにしていきたい。

煩わしさがあって、継続の採算を損なって、初めて改められる習慣がある。

余計な復帰の手間を強いられる煩わしさこそが安易な失敗を遠ざけてくれる。

それが速さであり、鋭さであり、煩わしさを嫌う人の素直さに他ならない。

昔、大学の図書館で見つけた美術の本に、何を以て作品の完成とするかを問う文言が記載されていたが、当時は身近な問題として考えられなかったので、今は詳しい内容どころか本のタイトルすら覚えていない。

スケッチの線すら安定しない自分に分かるべくもないが、個人的には完成とは既に済ませられたもの、次に進む為に自分で決めなければならないもの、妥協の余地の無いもの、必ずしもそこで完成だと決めつけてはいけないものだと感じられる。

意味は他にもいくらでも加えられそうな気がするけど、完成は何より自分の体それ自体に還元されるものであり、技術が蓄えられた心と体、それこそが完成の結晶として表に現せる唯一の手段と成り得る。

技は写し出されるものであり、版画のように一度でも築き上げてしまえば何度でも繰り返し同じ面を写し出すことができる技術の汎用が、唯一無二の個性を求めるあまりに量産から意識を遠ざけ、構築の力それ自体を遮るようになってしまった。

状況に応じて何度も使い回せる勝手の良さが無ければ、完成に至るまでの膨大な過程を消化するのは至難の技であり、スタンプで空白を覆い尽くすような便宜を図らなければ、完成に至る道筋すら途方もなくて見失ってしまう。

後でいくらでも、割に合わなくて申し訳ないほどの元を取れるから、技術の定着に伴う痛みは躊躇無く凌いでいいし、培った技術もまた、直ぐに元を取ろうとして焦って無理に結果を見定め、使えないと安易に判断して見限ってしまうことの無いように、慎重に状況に応じた効果を検討する必要がある。

もう充分頑張った、これ以上はできない、今ある成果が自分の全てなんだって思って億劫な一歩を仕方無く繰り返していると、いつしかその歩みが確かな進捗の手段になる。

自分の全てだと思っていた過程が取るに足らない一部に過ぎなくなる事実が本当に嬉しくて、安易な試みを避けて厳かな線が引けるようになった段階の変遷に感謝したくなる。

億劫で緊迫した一歩がずっと続くわけじゃない、絶え間無く膨大な波を凌ぐとなれば嘗ての厳かさは身を潜め、改められた継続の採算が一つの壁を越えられたことを報せてくれる。

そうした積み重ねが公に認められる成果として表れてくれるなら、たとえ今を捨て去るような取り組みに従事していたって恐くないし、先なんか見えなくたってこの取り組みの行き着く先の姿を信じて、どう芽吹くかも分からない技の根を育むことしか他にできることは何も無い。

何かを継続して、結果を出すというのは、そういうことだと思うから、何もかも分かったような振る舞いではとても続けられないし、人にこれからどうするのかなんて聞かれても、できることは限られていて、やれることは決まっているとしか、言いようが見つからなかった。

選んだ道には他の何かを犠牲にした後ろめたさが伴っていて、等価であるからこそ相応の思い入れがあって、それ以上立場を危ぶめないように必要に迫られて背中を押される力も働いている気がする。

やりたくてやってるのか、仕方無くやってるのか、好きだけでは続かなくて、嫌な思いをしたって諦めず、自分の取り組みの価値を伝えられないもどかしさを感じながらも、いつか人に認めてもらいたい自分が常に居る。

できないと分かっていれば諦めもつくのに些細なことだからこそ上手くいかないと悔しくて、取り組みに伴う重圧も変化して、できる人とできない人の間に溝を生じさせる。

こんなこともできないのかとか、できる人が羨ましいとか、表に出したり内心募らせたり、些細なことに過剰反応して大変なことだと思い込んで取り組みづらくなっているなら、些細な言動が命取りでもたまには見くびったっていいと思う。

そんな匙加減の難しさが人に何かを伝える難しさであり、優劣の軋轢を生じさせる要因となるなら、やっぱり億劫でも面倒でも優先順位が低くても、具体的に伝える技術を、どんなに時間を費やしたって育まなければならないだろう。

心のどこかで人を見下している自分がいて、人の問題にはほんの僅かな時間さえ費やすことを躊躇い、畑違いの分野には手も足も出せない身の丈を守りながら、昔からやりたいことがあっても未だ何一つとして成し遂げていない。

自分一人だけできたってしょうがない、みんなが同じように努力して結果を導き出せたらいいのに、みんなができるようになることに取り組むわけにはいかないのか、どうして自分はやりたいことに時間を割けないで、人には頑張ってほしいなんて思うのだろうか。

今ある心情を切実に吐露するしかできることは無く、願わくば、人の心に仄かな火を残し、煽り、飛び火させ、人の心に巣くうこの世の悪を焼き尽くすような動機を作れる創作に携わりたい。

傲慢だ、夢想だ、分かってる、歴史は繰り返す、人が人である限り、この世の悪なんて滅ぼせやしないのかもしれないけど、遠ざけて症状を軽減させることはできるはずだ。

説明のつかない現象を神の仕業に例えるみたいに、心の病気を鬱病と呼ぶのも善悪の区別や認定も同じで、その場凌ぎの仮の意味じゃなく、もっと別に納得できる姿があるのではないかと疑うべきだろう。

いつまでも仮設の便宜にばかり頼ってはいられない、悪とか正義とか、安易に括られた名称の枠組みに捕らわれず、何が正しくて何が間違っているのかを説明できるようにならなくてはいけない。

悪?正義?やっていいことといけないこと、被る不都合或いは好都合、人の為?自分の為?法に背けば罰を与えて、悪に傾く経緯や真相を顧みずに身勝手で呆れた言い分だと一蹴する。

みんなが同じように苦労しているのに、自分だけ法を逸脱するなんて我が儘だなんて、あたかも不平無く対等な立場で競い始めたような口実を並べる言動こそ理不尽で卑怯な行為に思える。

本当に同じ惨状を繰り返したくないと思うなら、感情に身を任せて罰則を強める他にも根本的に改めるべき点は見受けられるはず。

なのにそれをしないのは対岸の火事が綺麗だから、自分さえ良ければいいから、些細なことに貴重な時間を割くのは勿体無いから、本当に必要なことならそう感じる誰かが代わりにやってくれるから、自分にはできないと思うから、いざ実害を被れば他人事とは思えない問題の深刻さを痛感するにも関わらず、だから今まで長い間放置されてきた。

この世のあらゆる煩わしさが解消された世界では、人は何を生き甲斐にして過ごすのだろうか、行き着くべき完成の姿を見てみたかった。

無欲に余生を過ごすわけでもない、狂気に身も心も委ねるわけでもない、そんな退屈で騒々しい社会でまともに生きていける自信なんて無い。

いい人の辛抱強さが報われない、維持すべき大事な存在さえ中途半端にしか守れない、導けないような社会だと思ったから、二度と同じ過ちを繰り返さなくて済むような社会への変遷に貢献したいと思った。

何もかも嫌になって根本から刷新したいわけじゃなく、体内の腫瘍を取り除くように、人の心身に悪さしている小さな要因を切除して自然と快方に向かうような、そんな僅かに逸れた軌道を修正すべきだと思った。

人を人のままに、間違った方向に進ませないように、背負う重荷を少しでも軽くして、今を凌ぎ易くする為に、ただそれだけに専念すべきなのだと、改めて気付いた。
スポンサーサイト

営みの数

2017年 03月22日 08:45 (水)

人の数ほど営みがある。

人だけじゃなく、夜中にひっそりと食料品店の周りをうろつく猫にだって猫なりの営みがある。

すれ違う赤の他人も遠く離れた場所に済む誰かも、よく知る身近な人と同じように生活を繋いでなんとか生きているのだと思うと、今身近に感じる人達と関われない代わりに、そういう無関係な人達と関われる今があったのではないかと奇妙な考え方をしてしまう。

無関係な誰かの生活なんて知る由も無いから、すれ違う瞬間の干渉に難儀な猶予の乏しさや、歩いて地図を埋めるには途方もなく広すぎる世界とか、時間や距離に隔てられた心の壁が不意に未知に対する興味を引き立てることがある。

生き方、働き方、伴う責任や立場、維持すべきもの、こんなにも膨大な数の営みがあって、人知れず辛うじて繋ぎ止められている生活の存在に無関心だった自分自身の無知を顧みる。

自分はちゃんと自分で自分の生き方を選べているだろうか。

どんなことに取り組むにせよ時間は奪われるものだから、自分の人生という限られた時間の使い道について、何に時間を奪われたいのか、何になら時間を奪われてもいいと思えるのか、それを選ばなければならない。

通路の整然さを保つことで速やかな歩行が成り立つように、何か一朝一夕では成し得ない目的の達成を目指すには、地道でも惨めでも維持すべき時間の波を耐え凌いで猶予を広げる必要がある。

極端に言えばすべきことはそれしかなく、どんな道を選ぶにせよ継続する力の源が同じであれば行き着く果ての些細な色の違いくらいしか他に楽しめる要素は無い。

楽をする為だったらどんな苦労も厭わないと言ってはみても、楽観的な見込みから相殺された心労の全てを真に受けることはないし、生活を維持するだけの退屈な日常なんて本当は一日だって耐えられたことは無い。

歪な花の形となった社会の根を突き止め、僅かに逸れた人格の軌道を修正し、今より少しでも過ごし易い世の中であって欲しい。

億劫で取り組めないことがあるなら途中から始められる状態の保存に先ずは取り組み、即戦力になれないなら辞書で言葉の意味を調べるように詳細にして間に合わせるしかない。

営みの数が膨大な規模に及ぶからこそ、一人一人の抑制された能力の解放が世に大きな実益をもたらす採算の改善に他ならないと解釈できる。

技術の普及に用いられる言葉は鋭く研ぎ澄まされた刃のようで、それは人の心を傷つけるのではなく、人の心に繰り返し刻み込み、体に刷り込ませる教訓でなくてはならない。

浅い下積み故に今すぐ対応したくても対応できない惨めな心境の重圧にこそ対応したいのに、避けて怯えて対応の狙いを定められないまま過ぎ去る停滞の日々は際限が無い。

重圧自体に対応するわけじゃなく、その時にどう受け流して、自分に足りないものを補う為に今何をすべきなのかを見失わない平静の装いを保つ機転こそが要求されている。

普段から何気無く当たり前のように維持されている営みの力が礎であり、歩くように、息するように繋がれている基本の力を蔑ろにしないことが掲げた目標を達成に導く為の大きな助力となる。

形骸化してしまった営みの価値、有り難みを今一度取り戻す必要がある。

置き去り

2017年 03月12日 12:20 (日)

言い訳だろうがマナー違反だろうが、その時どうしようもなかった自分の立場も尊重できないで、どうして問題の原因を顧みて同じ失敗を繰り返さずにいられるだろうか。

容易には切り離せない、過酷な境遇に身を置かざるを得ない人にとっては、マナーも正論も、本当に解決を目指すべき問題から目を背けた見栄や建前にしか映らなくなる。

どうしようもなく不利なハンデを抱えて、他者と同じように振る舞えたからといって、苦境を耐え忍ぶ過程を蔑ろにされては正当な評価を得られたとは思えない。

対等でない条件で同じ成果を出して認められた所で、たとえ独り善がりに募らせた苦難の足枷だとしても、献身の事実を無かったことにされたまま継続できる道理なんてありはしないのだから。

マナーや常識を蔑ろにしていいことにはならないし、楽に済ませられることを楽に済ませず、いまいち手応えを得られない評価の客観性を得る為に露骨に自分を追い詰めても、相手からも水増しされた成果のように映ってしまい、実益の見込めない過程に気を遣った身の丈を蔑ろにされ続けるなら、切実な思いからの献身でも公に認めるなんてことはできやしない。

マナーや常識は大事、個々の置かれた立場の違い、正当な評価の区別も大事、隔絶された双方の関係を対等に繋ぎ止め、滞りなく速やかな流れを実現するにはどうしたらいいだろう?

見せしめるように目先の一人に注がれる憎悪や期待の裏切り、思い改めるなら相手の心を傷つけていい理由になるのだろうか、荒療治も仕方無いと、悪癖を放置しないで済んだ感謝の気持ちとか、そんな都合のいい展開を期待して嫌悪感を露に人の人格を非難して然るべきだろうか。

ただ自分の立場や献身の過程、苦難の事実を蔑ろにされたくないから違いを認めて欲しいだけなのに、その違いから分かり合えないと諦めてしまうのは皮肉な道理の罠に過ぎない。

相手の立場を思いやれるのは、慰められるのは、労えるのは、評価して認めて褒めてやれるのは、いつだって自分が同じことを経験したから、まるで自分自身のことのように、相手ではなく自分を褒めてやるみたいに相手を擁護する、いや、みたいにじゃなく、確かに自分自身を褒めている自分が居て、どこか浅ましく、惨めな気持ちさえよぎる瞬間がある。

それほどまで我が身こそ愛しく、自分が最も大事だという本音を晒せないで相手の立場を思いやることができるのは、暗黙の了解からか奇しくも図られる共感の一致か、分かり合い、譲歩を引き出せる余地がないとは言い切れない損得勘定の駆け引きがある。

殺意にまで膨らむ憎悪も人体の脆弱を顧みれば決して遠からず常に隣り合わせの問題だと考えても過言ではなく、復讐の火種がそんな脆弱な身の丈を脅かす些細な言動で煽られるからこそ、過激な行為に及ぶ事態がまるで餓死を免れるように紙一重に隔てられ、長きに渡り維持されている事実を忘れてはいけない。

見込み望んだ手応えを得られなくて、まだ足りないのだと思って、誰にでも分かるように献身を過剰に著しくする行為が溝を深めてきたなら、もうとっくに手に入れた成果であるという事実に、いかに早く気づけるかが次に進めるかどうかの境目になる。

故に小さなことに勢い余って継続の採算を損なうこと無く、小さなことだと軽視して自身の立場を蔑ろにすることも無く、周りの理解を求めるよりも自分で確かな客観的な根拠を携えながら自分自身を評価してやれることが、長い間頑なに拘っていた問題の終結と、次に進む為の力になる。

自分がより良く変わってしまったら置き去りにしてしまう自分の境遇と似た誰かが居るから、その問題を覆い隠して見失ってしまうことの無いように、弱者であり続ける茨の道を選ぶのだろう。

2017年 03月08日 02:10 (水)

安易な恥の上塗りを避けるためには泥沼の復帰力が欠かせないけど、恥の上塗りで塗り潰せる恥だってあると思う。

小さなことだと思って勢い余らなければ気にするのも億劫で過ぎ去り、気にする間に限り抗う必要に迫られるのだと留意する。

忌まわしい過去は物足りぬ安心から必然的な再訪に至り、時を隔ててそれまでの順調を嘲笑い瓦解させるべく突如その姿を現す。

日を跨いで事情を知らぬ他者を巻き込み取り戻せなくなった過去に安堵する展開を先走って猶予を今に限らせるのは深い古傷を残す行為。

この世で光を浴びるのは完成された結果ばかりだから、日陰で蠢く虫を見るような目で見られる惨めさを誰に理解してもらえるだろうか。

心の傷は癒えなくてもいい、いっそ隅々まで広めてくれ、いつ壊れるかも分からない自尊心を抱えて毎日を過ごすのは心地が悪い。

暴露のタイミングを相手に委ねるから脅され続けて、相手が自分のミスを自分が思う以上に気にしないのは厄介な事態を免れた相応の優位からだ。

刺激せず時間が過ぎるのを待つか、思い切って痛々しい失敗と正面から向き合うか、勝負する時間の長さと短さはどちらでも選べる。

だからこそ重い荷物を背負って平均台の上を進むバランスの悪さみたいに、左右どちらか僅かに傾いただけで慌てて元の均衡を取り戻そうとする。

無差別に、気軽に関われたらいいのに、皆一つに溶け込んでしまえばいいのに、相手の個性も捨てられたらいいのに、それができない。

修正の土台を築き、予め余計な手間を済ませた状態から始められるアドバンテージがあるから、猶予を今に限らせてはいけないという。

無差別に、無造作に、断片的に得られた情報を並び替えて、うんざりするくらいに反復して得られた傾向から対策を練る。

一つのきっかけで多くを学べる必要は無く、多くの試みを繰り返して一つの技術の定着に繰り上げればいい。

そんな下積みの有利は恥辱の軽減にも役に立ち、たまにあるような痛いミスなら翌日には当日ほど気にしたりはできない。

唯一の汚点が際立つのは構築の瓦解を恐れる程に練り上げられた過程があってこそで、試みの数が膨大な規模に及ぶから稀に痛い失敗も呼び寄せるし、粗探しから揚げ足をとられるような汚点を残しても、そうならざるを得なかった自分の弱さを偽る理由は大して無い。

どんなに自分を慰めても、その程度が惨めな根拠を裏付けるならキリがないし、十字架を背負ったような痛みの記憶から目を背けても同じこと。

失態、醜態、落ち度、何とでも言えるけど、最も大きな失敗はその唯一の失態が際立つ位に自分の好ましい部分だけを露にしてきた見栄の張り方にあるのではないだろうか。

自分の実力を、自分の身の丈を、視野の狭さを偽るようになったのは一体いつからだろう。

順調に事を運べるようになった手際に自惚れて、失態だとか汚点だとか自分で自分を買い被る認識こそ間違いだったと悔い改めるべきなのかもしれない。

それが一番楽だから、罪の意識なんて背負えないから、同じ失敗を繰り返したって決して自信を失わない強靭な、脆弱な精神力が欲しい。

どうして実際にあるかどうかも分からない瞬間に怯えて当たり前にできることもできなくなるのか、対応できないような辻褄の痛みに対応したくて自ら引き寄せる痛みなのだろう。

怒りの源泉

2017年 03月03日 01:48 (金)

無意識に期待して裏切られたり欲しいものが手に入らなかったり、怒りの感情を膨らませる動機というのは行く先々、至る所から供給されるのだと思った。

散りばめられた動機の一つに過ぎない期待の裏切りに逐一腹を立ててはとてもやっていけないと思うし、常に次々と憤る動機を手に入れられる立場にあるなら取るに足らないことなんだと思って、自暴自棄な振る舞いを踏み留まることだってある。

意識の水面下、怒りの感情に支配されて自分でも気づかない内に、一秒一歩進む度に新たな憎しみの動機が供給される。

誰かがすべきことを放置したり、余計な復帰の一手間が追加されたり、どこに行っても起こり得るありふれた苛立ちの動機に振り回されて、何もかもを蔑ろに扱うのは割に合わないとも思った。

距離も時間も人も物も、自分を取り巻くあらゆる全てに憎しみを募らせる動機が潜んでいるから、そんな渦中にあることにも気づかないでその全てを完璧に避けようとするのは無謀な試みに他ならず、稀にしくじってしまっても仕方が無い。

怒りの動機が供給されるとは、直ぐに改善したくても改善できない非効率を気にする焦燥の摩擦に過ぎないのかもしれない。

誰かの悪癖や怠慢をどうにかしたいと思いながら自分のすべきことをして毎日を過ごしても、改善の手立てが無いなら時間の経過に伴って常に苛立ち続けることになる。

壁にぶつかって満たされない気持ちが次々と重なり、容易に手に入らない裏付けを得た何かに対する価値観をますます希少にする。

壁に阻まれているという現実だけで、いつどこにいても怒りの動機を供給される根拠になる。

だから、そんなありふれた動機の為に余計なリスクを呼び込んで維持すべき日常を危ぶめたくはないと思うんだ。

無意識の底で膨らむ感情の源に操られたくない。

抗える所は抗い、支配されないように、克服すべき本能を見失わないようにしたい。

同じ失敗の繰り返しは嫌だから。

まるで神様に操られて、弄ばれているみたいだから。

困っている人の不幸をのうのうと静観しているような面白半分の神様なんて要らないから。

そうやって辛うじて踏み留まる精神の仕組みさえ、神は利用するんだろう?

神とは管理者の象徴で、悪の心に等しく人の心に寄生する傲慢な虚栄心なのかもしれない。

それが不慣れな他者を巻き込み強く振る舞える人の傲慢、人のありのままの姿なのかもしれない。

人が人を操作するのではなく、自分の目的の達成の為に調整を施すべき要素に過ぎないのであって、まるでロボットみたいに簡単な指示を出して全うさせる。

全体の流れを損なわせないように、上手く回るように、常に全体の様子を監視して或いは情報を手に入れて整合性を保たなければならない。

大変だから大変だと決めつけて改善に努めず放置するのは甘い蜜を吸っているのと同じで、損な役目だから報酬も弾んで周囲との溝を深めては大変な立場に甘んじるのだろう。

面倒だからやらない、その些細な億劫が歴史の空白を広げるほどに非効率を間延びさせる。

本当はもっと傲慢に生きてみたい。

人に気を遣わず、人を見下して、蔑んで、言葉で人を傷つけて、自分の正しさを認めさせる為に形振り構わず自分の立場を正当化できたらどんなに楽だろうか。

いつも踏み留まる。

人が恐い。

目なんか合わせられない。

期待も信用もできない。

誰かに対して無意識に寄せていた期待がほんのちょっとした言動で裏切られる度に、自分の立場について周りから理解を得たいなんて惨めな自分の存在を顧みて、期待してはいけないんだと周囲から目を背けてしまう。

だから無尽蔵に怒りの感情を注ぎ込む源を突き止めて根絶やしにする必要があった。

つまらないものに時間を割きたくはないと意識に刷り込ませて、身の丈に合わない領域に追いやられる自分の窮地に酔いしれていた。

人を信用して、助けを求める行為は言うほど容易く済ませられるとは思わない。

人を選ばぬ技術を培っているつもりが、どうしても身近な人間には打ち明けることも仄めかすこともできない。

何を著すべきだろうか。

人を貶すことで辛うじて保てた拙い自信とか、共感し合えるはずの期待を裏切られて幻滅した仲間の存在とか、いくら妥協しても妥協し過ぎることは無いような、人が人を選ぶ浅ましさ、醜態、そんな人の、自分の弱さから目を背けないこと?

自分の重荷になってる余計な殻は全部削いで砕いて剥ぎ取って、自分であることを拘らない人間になりたい。

生きる意味なんて求めなくても、大それたことじゃない些細な未練にしがみつくものだと死ぬ間際に気づけるだろう。

なんでこんなに生き急いでいるのか死に急いでいるのか、人の寿命が若い内に迎えるものなら人の人格はこうまで歪まないかもしれないし、或いは勝ち逃げするように私利私欲に逃げ切るかもしれない。

いつだって人生は時間との戦いで、長いような短いような時間の流れに身を漂わせる他に、特に対応すべき問題は見当たらない。

焦らないように、退屈させないように、空白を埋めるように自分を誤魔化して、長い時間の波に対処するしかないのだろうか。

残された限られた時間を根こそぎ奪われないようにする戦い?

自分に出来ることは誰にでも出来ることで、誰かにしかできないことなんて無いと信じたい。

何か一つ大切なもの、維持すべきものができれば、世界を回らなくても日常がスリルになる。

価値観の違い、何に取り組むか、他者とどう干渉すべきか、相手の自尊心を蔑ろにしないで危険を遠ざけることが取り組みの概要である気がしてならない。

思い描く結果を思い通りに手繰り寄せられないで陥る焦燥の摩擦が生涯に渡って心身を蝕むのなら、怒りの感情を支配して克服すること、感情の欠落こそが今まで自分が目指してきたあらゆる煩わしさへの対応法ということになる、なってしまう。

恩着せがましい、独り善がりな献身が嫌いだった。

一思いに楽にせず、生殺しにされているような気分になるから。

思いやりは確かなのかもしれない。

でも、中途半端にしか守れない自分の人生に人を巻き込んで、割に合わない代償で無かったことにする免罪符にも思えてしまう。

怒りの感情の火は常に燻っていて、些細なきっかけで煽られ火に油を注ぐように取り返しがつかなくなることだってある。

自分の弱さを認めてさらけ出すことが本当の強さなら、その臆病で後ろめたい、人一倍強いコンプレックスと釣り合う何かがあるから、弱さを弱さとして残したままでも微々たる力を用いて逆境を耐え凌ぐことができる。

貧乏性が絶えないから、与えられた貧困な条件を運用して何かを達成する楽しみに身を委ねたいと常々考えてしまう。

それで強者にさえ出来ないようなことを平気で取り組んでしまうのだから、慣れた立ち振舞いとはいえ脆弱な身の丈に素直になる行為とは逆行している気がする。

誰かに深い悔恨を残すような怒りの感情はほんの数秒で練り上げることができる、痛みと時間の掛け算のようなもの。

表向き平静を装えていても憎たらしくて憎たらしくてたまらない、無尽蔵に鋭さを増す怒りの源泉がある。

その事態を促す挑発的な言動や自分の立場を尊重するのに精一杯で無神経に蔑ろにする周囲の立場、意識の水面下に蔓延る客観性、誰もが同じように怒りの感情を募らせることを忘れてその脆弱な身の丈を脅かし合う。

僅かな感情の起伏に突き動かされて水面に伝わる波紋のように広がっていく怒りの感情は時間の経過に伴って鎮静化し、ありふれたことのように次の波及に備えて待ち構える。

慣れて対応できるようになったから、下手に根本的な問題の解決に踏み切って余計な順応の手間を強いられる事態を避けたいと思うのか、力の内を晒せば対策されるように新たな問題が浮上するのだと恐れてしまう。

いつか全ての人が感情の仕組みを理解し、より良い結果を導くために感情を制御することができたなら、それが本当に自分が思い描いた均衡と共感の世界になるかもしれない。

新しい問題が浮き彫りになる事態も分かっているつもりで分かってはなく、世界の見える側面を変えることくらいしか取り組めないから、結局人の元来の弱さから目を背けているだけの行為に過ぎないのかもしれない。

でも、やらなきゃならない。

同じ失敗の繰り返しは埒が明かないし、独り善がりな献身でも成就させて報われたいから。

少しでも理想に近づけられればそれでいい。

いきなり正解に辿り着く必要も無い、自分一人で何もかもを背負う必要も無い、先ずは残すことが大事で、今できることは伝えることに腐心するしかないのだから。

肝要を捉えて、落ちを着かせる。

これを繰り返せばいい。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。