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読み捌く力

2016年 11月26日 23:36 (土)

文字だらけの本を読んだり人の長い話を聞いたりして、その内容を理解しようとする行為には似た要領がある。

テレビで見かけるような、同じ人が話し続ける答弁の場では特に画面が頻繁に切り替わることもなく、ノーカットの体裁で一部始終を放映している。

その間同じ人が聞かれたことや前もって準備していた内容について話し続けるわけだけど、こういった時に聞き手はどんな風に情報を捌くことで内容の理解に結びつけているのだろうか。

もし、この答弁のシーンを漫画のコマ割りで再現するなら、同じコマで一人の人間が話す内容の吹き出しに、びっしりと話の内容が文章となって詰め込まれるのだろうか。

或いは人を映し出す角度を変えながらコマ割りも話の内容も読み手が咀嚼しやすいように分割されるのだろうか。

特に制約がなければ後者の方が抜群に読み手の理解を得られやすいし、細かい表情の変化や動作の機微を表現できるなら何気無い仕草から人間味を拾える趣もある。

言語の違いさえ、時と場所、主体、理由、対象など重要な情報として共通する意味さえ掬い上げることができれば飛躍的に意志疎通の便宜を成し遂げることができる。

聞き手も話し手も、同じ要領を用いて伝えるべき情報を伝え、必要な情報を選び取っている。

捌くべき情報の今と過去とこれからを上手く切り離して、話や文章の海に思考を漂わせる感性こそ養われるべき読解力なのかもしれない。
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基本

2016年 11月24日 19:11 (木)

将来を思い煩う焦燥の不安を力に変える。

悪しき習慣に劇的な変革をもたらす力でなくてもいい。

修正の土台を築き、細部に拘る妥協しない力に変えられさえすればいい。

それでも思い描く結果を直ぐに手繰り寄せることはできない。

焦りの痛みはなかなか落ちない汚れみたいに凝り固まる。

時間の水で少しずつ丁寧に溶かしていくしかない。

見るべき対象は汚れ全体ではなく、綺麗に磨き取った僅かでも確かな結果。

汚れを落とせば落とすほど光を反射して手元を明るく照らし、残った汚れを際立たせて狙いを定め易くする。

直ぐに済ませられないことを直ぐに済ませようとする必要は無い。

諦めて諦めて費やされなかった集中力を、最後の最後まで唯一残された細部に余すことなく注ぎ込めばいい。

藁にもすがるような思いで未熟な自分を目先の細部にあてがって調整を試みる。

それがきっと、いつまでも変わらない尊重すべき基本になるはずだから。

停滞と焦燥

2016年 11月23日 05:01 (水)

勤務に入って暫くしないうちに終わりまであとどのくらいかを確認する。

またか、と思った。

本当に同じことの繰り返しだ。

一日の勤務時間を凌いだ所で期待通りの進捗など得られないのに。

どうせまたゲームや動画に夢中になって後悔するんだ。

焦燥を免れる行為は寸分の落ち度も許さない完璧を目指す行為に似ている。

脆弱な試みかもしれない。

どんなに焦らないで済んでも、ほんの僅かな失敗が著しく心身を摩耗させる。

長く維持に努めると、些細な失敗でも報われない気がして惨めな気持ちになる。

焦燥の摩擦に乗じる痛みとは異なる構築の瓦解に伴う痛みだ。

そういう失敗は出会い頭の事故のように、慣れた頃に突如としてやってくる。

慣れたことでも成功を重ねるほど失敗の確率が際立つように、逃れ続ける方が寧ろ難しくなる。

なんでこんなことが起こるのだろう。

もしかしたら退屈しているからかもしれない。

出来て当然を繰り返す無難に終始している。

力を持て余しているようで、いたたまれないのだろう。

だから手応えを求める焦燥は必然的な事態に過ぎない。

自分で望んだ焦燥なのに、避けたいと思う程に対処の狙いを絞れなくなる。

避けたいと思うべく避けてきたのだから、急に立ち向かおうとする方が無理な話だとも思う。

免れ続けた期間は形骸化して、瞬く間に焦燥の周期は訪れる。

獲物の動きを誘導する狩人のように、結果を制御できるような備えを予め散りばめておく必要がある。

容易に結果を予測できるような動機を作って、最大限の余力で臨める蓄えが欠かせない。

何故そうまでして対応にあたる必要があるのか。

なんてことはない。

これも活かすべきチャンスを繋ぎ得る為だろう。

不利な立場でも挫けることなく逆転の好機を諦めない、崩れた態勢の立て直しを図る復帰力が試されているんだ。

結局は、目的の達成の為に維持すべき条件を維持する運用力次第ということになる。

還元

2016年 11月19日 08:20 (土)

やらなきゃいけないことをやる時間ができても取り組む気にならない優先順位の劣勢は素直に認めていい事実かもしれない。

壁に隔てられた思いを自ら強くしてしまうなら、小さなことに勢い余る躊躇から取り組みづらくなるし、手に入ってしまえば何も残らない。

気持ちの増幅を免れることができるなら、免れた分だけ感情移入せずに客観的な価値観で取り組むことができる。

壁に隔てられ勢い余ってしまうような思い入れは作業を捗らせる推進力に変えることができる。

だから今すべきこと、今出来ることを見誤ってはいけない。

そうでないと、好きなことに取り組む為の平静の装いすら確保出来ないから。

認めたくはないけど、今は考えることしか出来ない。

消し去りたい過去

2016年 11月16日 21:47 (水)

なんかこう盛大に滑ってしまったような、痛々しい失敗をやらかしてしまうことが稀にある。

思い出す度に恥ずかしくて、何であんなこと言ってしまったんだろう、やらかしてしまったんだろうと後になって悔やみ続ける。

逆恨みにも似た感情で苛立ち、ほとんど自滅に近い失敗のきっかけとなった何かを疎まずにはいられない。

小さなことに勢い余っているのだろう。

消耗戦で余計な浪費を促されるように、自ら不利な立場に追いやられているんだ。

折角積み重ねた過程が些細なきっかけで台無しになる。

痛々しい思い出にはそんな側面がある。

小さなことに振り回されて、ちょっとしたことで報われなくなる。

弱みを握られているから。

似たような失敗を重ねて痛々しさを希釈してみようとも思う。

過去に遡りたくても戻れない諦めの気持ちを利用して、時間の経過に解決してもらおうか。

誤魔化そう、紛らわせようとすればするほど汚点は際立つ。

こうやって費やしている時間や労力そのものが痛々しさの純度に還元されているのだろうか。

気にすればするほど深みに入って抜け出せなくなりそうな悪循環ないし負の相乗効果がある。

痛々しく恥ずかしい失敗のきっかけ。

何の罪もないけど、もう見るのも嫌になってる。

どうしようもなくて、どうにかなってしまいそう。

焦燥の断念

2016年 11月16日 21:17 (水)

早く一日の勤務を済ませて好きなことに没頭したい。

そんなことを通勤前から考えて、焦燥の摩擦で心身を蝕む毎日を送っている。

この痛みが勤務時間中ずっと続くのかと思ったら、とても割に合わなくて直ぐに断念した。

焦り続けることを断念した。

気づいてみれば簡単なことだった。

どんなに焦ったって耐え難い程の苦しみが長く続くと分かれば、いつまでも焦燥に身を委ねたりはしない。

もう採算は損なっているのだから、いつまでも壁に隔てられた価値に呑まれて振り回されたりなんかしない。

焦り、痛み、諦める。

それだけのことだった。

最悪の事態

2016年 11月15日 21:42 (火)

不慣れな事態の頻度に対応しようとしても、間を置かずに回数を重ねて慣れてしまっては不慣れ自体に対応できているとは言えない。

頻度の隔たりを固定して、決められた周期で反芻し、苦手意識を収縮させる。

仕事のミスや交通事故、重い病気の症状に苛まれる事態を仮に最悪の事態と呼ぶ。

最悪の事態は陥るか免れるかの分岐しかなく、出来て当然の繰り返しに終始する無難で持て余す後ろめたさから、自ら最悪の事態に身を投じる選択に迫られることもある

最悪の事態を免れる期間がどれだけ間延びされるかも分からず不慣れな事態の対応に怯えるのは、自分が恐れる恐怖を自ら大きくしてしまっているようなもの。

最悪の事態を避けたいと思うあまりに悪戯に間延びして、対応すべき一定の頻度の隔たりに対象を絞れずにいる。

それならば、いっそのこと頻度の隔たりを広げられるだけ広げてしまえばいい。

不慣れな事態の対応に憂慮するのだから、隔たる程に強くなる不慣れに対して、その一点のみに全勢力を注げるように想定内の事態として待ち構えておけるようにする。

対応すべき頻度がバラバラだと狙いを定めることも出来ず、適材適所に備える根拠も得られずに、ただ振り回されて余計な浪費を強いられる結果となる。

頻度別の対応を模索して、使い分ける必要がある。

2016年 11月14日 20:16 (月)

人が死んだ。

長い時間知り合えるような親しい人ではなかったけど、漠然とこれからの長い時間を切り取ってみても、もう会えないんだなって気持ちが込み上げてきた。

自分でも気づかない内に先の展開を思い煩い、その焦燥が長続きすると思い込んでしまう。

これも焦燥なのだろうか。

失う悲しみなのだろうか。

憎まれっ子世に憚るなんて言葉もあるけど、いい人が世知辛い世の中を後にして苦しまずに済むなら別に憚ってもいいとさえ思える。

死ねばもう何もできない。

残された人が維持に努めるしかない。

自分がやるしかない。

もっと強くなるんだ。

諦めない口実

2016年 11月14日 13:19 (月)

思うように捗らない。

いや、順調には進んでる。

ただ、その順調がこんなにも遅く感じられるペースだとは思いもしなかった。

きっかけは掴んでいる。

飛躍的な進歩に繋がる確かな予感がある。

それまではすべきことを済ませて、平常心を損なわせないように努めよう。

少しでも上達してしまえば二度と元の純粋な下手さには戻れなくなる。

最も困難な段階を凌ぐことができたのだから、もう諦める理由は何もない。

今が今しかない窮地を乗り越える一番楽しい時。

焦り焦らず精進しよう。

焦りは力にも障害にもなり得る。

同じ失敗を繰り返さなくて済むように、滞る現状の不安や重圧から生じる焦燥を力に変えて、余すことなく注ぎ込む。

焦燥の免れは束の間のチャンスを掴む力となり、焦燥の利用は細部に拘る妥協しない力となる。

焦燥とは人体に予め備えられた機能の在り方に過ぎないのだから、良くも悪くも利用することができるはずに違いない。

焦燥の二面性

2016年 11月14日 05:00 (月)

焦っている時は決まって少ない猶予で何かを成し遂げようとしている。

焦りは過剰に飛躍した段階の着手に取り組んでしまっているバロメータであり、思うように上手く事を運べない時は先ず客観的な手順に誤りがないかを疑う必要がある。

焦燥の克服は大事な課題だけど、必ずしも焦燥が悪影響だけを及ぼすとは限らない。

何か大きな変化の決断に迫られる時、滞る現状から将来の不安を思い煩って先走る焦燥の摩擦に苛まれることがある。

そんな時は負担を許容量に分割するか新たに必要な時間を供給することによって相対的に無理なく解消することができる。

しかし、それでは習慣を改めるきっかけとなるような重圧を逃がしてしまうことになり、心身を蝕むような生殺しの期間を悪戯に間延びさせかねない。

損なわせるべき採算は停滞の継続であり、先を思う不安や重圧の痛みを時間に乗せることで現状に変化をもたらすきっかけを作る。

次から次へと送り出され、ぶつかって積み重なっていくような隔たりの構造がなければ壁を突き破る力は決して得られない。

結果を隔てる膨大な過程という壁自体こそが、壁を破る為に必要なエネルギーを蓄える皮肉な真相がある。

無差別化

2016年 11月12日 04:08 (土)

勤務中は焦らない。

焦るとできることもできなくなるから。

餓死を免れて繋げられる日常みたいに、束の間の平静を保てる限られた期間に事を済ませる。

そうすれば、日常からストレスを遠ざけて不安な先行きに憂慮する必要も無くなるから。

これは技術の行使。

発揮が限られた活力。

勤務外に好きなことをするのも同じ要領を用いる。

即ち、焦らないこと。

完成の結果を無理に手繰り寄せようとして、結局断念する形で未着手に終わる。

途方もない過程の果てにあるはずの完成は壁に隔てられ、だからこそ価値を感じて、補う必要に迫られ直ぐに手に入らないと見るや愛想を尽かして颯爽と諦める。

焦らなければ余計に欲しい気持ちを強くすることもなく、断念に至ることもなく間違いを重ねることができる。

直ぐに目先に手繰り寄せられない結果だと分かっているからこそ、済ませるべき膨大な失敗の必要に躊躇わない。

焦らない間に限り、物事を円滑に進める能力を損なわずに済む。

そうなると、いつも同じ要領の繰り返しで済むことになり、飽きて後になるほど焦燥を免れづらくなる。

勤務中に焦らないよう気を遣えば、勤務外で気力を損ないかねない。

それなら、勤務外の限られた時間で不慣れな能力を発揮する必要に拘らず、慣れた事をすればいいと考えるべきだろうか。

勤務内外を無差別化して、同じことの繰り返しで済む有り難みの根拠を取り戻す機転が肝要になるだろう。

これは、普段不慣れで着手に億劫な取り組みほど効果のある解釈かもしれない。

苦手意識を克服する糸口を掴むきっかけになるかもしれない。

評価

2016年 11月11日 05:01 (金)

ひとつでもいいものができると、その価値を損なわせないように、その価値に見合うように、台無しになって報われないことが無いように、引き続き研鑽に努めようとする。

大学に通っていた頃、視野を広げたくて進んだはずの道で漠然とあてどなく受け身の勉強に寄りすがっていた。

人生に自分なりの活路を切り開きたくて、何でもいいから好奇心をくすぐり没頭できる何かを探し求めた。

在学予定期間の半分を過ぎた頃、同期の学生の勧めで国際政治学のゼミを選択する運びとなった。

他の所属学生の事情は知るべくもなく2年の空白を取り戻そうなんて時間を遡るような無茶を試みようとしていた。

授業の遅れに関して個々の学生に合わせて進めるほど寛容ではないゼミだったようで、卒論の準備期間さえ確保できなくなる事態も恐れていたので、もう引き下がる訳にはいかなくなってしまった。

不利な立場でも卒業くらいできるような結果を積み重ねなければと思わざるを得なかった。

結果として卒論の単位も認められて無事卒業することもできたけど、就職にまでは結びつけることはできずに非正規雇用の人材として社会的に不安定な立場を過ごしている。

卒論は成績表の上では思った以上の評価をいただくことができて、腑に落ちない気持ちの傍ら確かに嬉しい気持ちもあった。

きっと今まで勉強してこなかった遅れを取り戻した分の評価を貰うことができたんだなと、差し引きゼロでようやく人並みに辿り着けたような解釈で納得しようとした。

ようやくスタート地点に立つことができた入門段階という解釈は、あながち間違ってはいないと思う。

何故なら、高い評価を貰ったって、全くそれに見合った成果を得られていないと思ったから。

何も始まっていなくて、今までより余計に途方もなく思えた。

何でこんな身の丈に合わない買い被られたような評価を得られたのだろう。

ゼミの教授はこういう心境になる事態が分かっていたかもしれないし、或いは別に適当で気にも止めていないかもしれない。

後者なら単なる自意識過剰で、前者の想定ならば評価は飴と鞭で、いいように手の平の上で踊らされているだけのようにも思えた。

そういう可能性を当時から考えつつも、今まで取り組んできたことは引き続き取り組むべきだと思って、実際その通りにしてきたつもりでいる。

全然評価に見合っていなかったから、今でも成果を積み重ね、評価に足りない成果を補い続けようとしている。

そうすることで取り戻したい何かがあり、それには自惚れに便乗してでも向上の機会を逃したくはないと考えるようになった。

評価に見合う恥ずかしくない等身大の自分に重ねられるように、愚直に続けるしか無いのだと思った。

報いの証明

2016年 11月11日 02:28 (金)

幸せな人と不幸な人がいるなら、不幸な人は幸せな人の大事なものを脅かすことによって自ら負い目に自覚する惨めな立場を正当化することがある。

エリートと落ちこぼれの括りがあるなら、エリートは落ちこぼれを貶し、貶めることで取り戻せる自信がある。

自分の立場が苦労に見合う正当なものであることを確認したいが為に人の自尊心を傷つけ、心の奥底で無意識によぎる惨めな思いを断ち切ろうとしている。

頑張るものは報われるなんて辻褄合わせの為に、嫌な思いをせずに済む報いを得ようとして、人に嫌な思いをさせる手段を選ばずにはいられない。

瓦解の恐慌から生じ得る構築の葛藤は脆弱な急所であり、持たざる者が自分の立場を正当化するにはうってつけのアドバンテージとなるだろう。

そうまでしないと客観的な手応えを得られず、自分のやってきたことが本当に間違っていなかったのかどうかさえ確認できない。

褒められたり慰められたりして自信を損なわずに済めばいいけど、一時的とはいえ人を見下さなければ保てない自信に過ぎない事実は内心とても悔しくていたたまれないこと。

本当は自分だけに不当な負担が偏ってると思える不平が耐え難くて許せないだけなのだけど、誰かを貶めなければ完成されない結果なんて求めてはいなかったはず。

猶予を今に限らせず散在の焦燥を免れて束の間に保たれる平静の装いのように、人より有利な立場に置かれて初めて引き立てられて、発揮できる能力もある。

人より優位であることが普段通りに能力を発揮できる条件や根拠となるならば、勝者である為には敗者の存在が欠かせない依存になるだろう。

優位な立場が当たり前になると本当は確認するまでもない優位性を確かめる行為が分かりきったことをくどく追及する野暮な行為に思えて、思い通りの手応えを得られない苛立ちから弱者を貶めたくなるのだろうか。

有利な立場という勝って当然の立場に滞る辟易の苦痛は徒労に見合わぬ報われない惨めさを刷り込ませ、苛立ちの矛先を弱者に向けて束の間の平静を取り戻す焦燥に腐心させる場合がある。

欲求の壁

2016年 11月08日 08:24 (火)

やりたいことがあっても勤務中の拘束時間や他に済ませておくべきことを優先して直ぐに取り組めない時、壁に阻まれたような重圧を感じることがよくある。

壁はその先に対する思いを強くするから、仮に直ぐに取り組めた場合よりも余計に感情移入して過剰に勢い余らせてしまう。

やるべきことを全て片付けて、ようやく取り組める段階になって壁は取り払われるけど、壁に阻まれて増幅した気持ちはどこか行き場を失ったような空しさを引き寄せる。

壁に阻まれていることが欲求不満の根拠になっていた為に、自分で構築した根拠を自分で奪い去ってしまったみたいで何も残らなくなる。

でも本当は、そうした欲求の壁こそが克服の対象となる本能であり、過激な行為に傾き得るような欲望自体を制御することが、引いては今まで身に付かなかった技術の制御に繋がっていくのだと思う。

行き来

2016年 11月07日 18:18 (月)

出来て当然の繰り返しに終始する無難は臆病者なのか、或いは出来て当然のことさえ満足に出来なくなる挑戦者は無謀な蛮勇なのか、後ろめたくて右往左往している。

貧しい手段の運用には尊い拙さがあり、限られた手段と時間をギリギリまで目一杯費やして圧倒的な戦力差を覆す挑戦は深く印象に刻まれる。

少しでも技術が上達して貧しい環境が改善されたのなら嘗ての純粋な下手さ、貧しさには二度と戻れなくなり、どれだけ上手くなろうと当初の窮地を凌ぎ乗り越えた達成感には及ぶべくもない。

まるで希釈されたような水増しで、比較的容易な達成でどんなに薄められようとも、当初の達成感という純度が損なわれることは先ず考えられない。

最も貧しい窮地を凌げたのだから、改善された状況でどれだけ結果を出そうと自己満足の域を出ないのかもしれない

本当の強さとは逆境に挫けず、崩れかけた態勢を建て直して維持する復帰力なのだと主張する立場もあるに違いない。

そんな思考さえ場合によっては独り善がりな苦労の水増しに過ぎないのだと非難されることもある。

自ら求めた挑戦の道が容易には切り離せない不自由な立場に拘束される道なら、自ら蔑ろにしたはずの自由を渇望して止まなくなるのだと。

そもそも出来て当然の繰り返しに辟易して不利な条件での勝負を選んだのだから、出来て当然のことが満足に出来なくなったからといって悲観的な感性に傾く道理も無いのかもしれない。

自由を求め、不自由を求め、双方を行き来しながら退屈な自分を誤魔化して生きていくしか苦しみを遠ざける方法はないのだろうか。

怠慢と自発

2016年 11月03日 21:11 (木)

自分で結果をコントロールしなければならないと思い、主体的な判断で立ち回る必要に迫られるタイミングが稀にある。

ゲームでは回復や足止めなど、有利な状況をいかに維持できるかが結果を左右する決定的な要因になりやすい。

自分が何とかしなければ立ち行かなくなる状況で、足りないもの、損ないつつあるものを必死に補えるよう努める機転が欠かせない。

人が怠ければ代わりに自分が頑張らなければと、自発性を促される仕組みがある。

逆に自分が怠ければ人はしっかりすると思って、責任感を煽り立てる姑息な魂胆も無くはない。

それこそ一方に負担を偏らせることなく、飽くまで自分の生活を守るためにすべきことを自分で選べるよう、均等に促されるべき感性と言える。

共感すべき立場

2016年 11月02日 21:58 (水)

悪の人格は独り善がりに募らせる苦しみの結果であり、偏った負担の捌け口を見つけられない風通しの悪さによって徐々に傾き、陥っていくものだと考えてきた。

だから仕事の場合には、人の負担の一部さえ肩代わりすれば残った負担に専念してもらうことができ、まだ教わっていない仕事に関する情報についても譲歩の余地を広げられるのだと思っていた。

そうしなければ人に仕事を教える余力なんて生じないし、その余力を残してもらう為に行う負担の肩代わりは信用の構築にも繋がるだろうから。

でも最近、それだけじゃ人の人格から風通しの悪さを遠ざけることは出来ないのだと思うようになった。

負担の一部を肩代わりするだけでは、いつまで経っても相手の孤独な気持ちに寄り添えない理由がある。

なんと言えばいいのか、ゆくゆくは相手の立場に伴う負担の一部ではなく全てを委ねてもらって初めて本当の意味で共感し合える立場になれるのだと思った。

媚びた感じで気を遣うように話す口調が不本意な負担を遠ざけたい気持ちを物語っていて、明け透けに不満を漏らせるような多少なりとも荒めで傍若無人な言動こそが委ねられない負担の全てを抱える立場を証明する根拠となり、それが本当の意味で同じ立場の人の風通しを良くする共感に値するのだと思うようになった。

負担の一部を肩代わりするだけでは、まだ逃げの姿勢から抜け出せていないのだろう。

負担を遠ざける為に気を遣い続けるよりも、負担を背負って気を置けない関係を構築した方が、もしかしたらずっと楽に済ませられて、安上がりなのかもしれない。
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