09月 « 2017年10月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  » 11月

スポンサーサイト

--年 --月--日 --:-- (--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

お知らせ

2017年 07月20日 07:24 (木)

Twitter始めてみました。よろしければ、こちらもいらしてみてください。

https://mobile.twitter.com/hijirinne29

ブログを読んでくれる方、拍手していただける方、本当にありがとうございます。

この度、情報の整理における利便性の向上を重視しましてTwitterの利用を試みることにしました。

主に絵を描く技術の向上を目的として開設しましたが、思ったことを簡潔に述べて伝えられる長所を存分に活用したいと思っています。

他にもいくつか理由がありますが、ブログに関しては新たな使い道を検討しています。

そうは言っても今まで通りのやり方では際限がないと思ったので、新たな方法を試しながら相互に連携して活用できるきっかけを探っていけたらなと思っています。

皆様の支えを無駄にしないためにも、より一層飛躍できる手段の検討に今後も着手したいと思います。

少し内面をさらけ出して、ややくだけた感じに運用していきたいので、自分らしさみたいのも伝えられることができたら幸いです。

上手くいかないことも多いですけど、気負わず楽しく続けていきたいのが私の本心です。

ブログの更新は恐らく滞るかとは思いますが、なるべく本来の用途を思い出しながら、目的の達成に役立てたいと考えています。

恐れ入りますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。
スポンサーサイト

憔悴

2017年 07月13日 07:01 (木)

少なくとも一日二時間は、絵を描く技術の向上の為に確保できる。

なぜ二時間なのか、それで充分なのか、手に入れた必然性に戸惑いながら、その二時間の意味を考える。

もっと時間を多く残せたなら、逆に持て余す気後れも生じ得るのだろうか。

自分と同じ道を歩む誰かが今も贅沢なまでに時間を費やしていると考えるだけで、普通であることがこんなにも苦しい。

一体誰との遅れを気にしているのか、一日二時間でも纏まった時間が過ぎ去ればきっと大きな力になっていると、人に思うほど前向きで望ましい見通しは得られない。

いかに手間取っても、答えは既に出ている。

時間が問題なのではなく、直ぐに報われたがること、今という時間に遮られて悪戯に摩耗させること、募らせた苦しみを安易に逃がしてしまって、結局はまだ懲りていないだけなんだ。

自分を労れば、慰めれば、まだ頑張れると思って、際限無く傷つけ苦しめられる。

もう限界だと思おう。

そうすれば余計に傷つかなくて済む、小さなことを気にしないで済む、平静の装いを保てる。

今の時間で足りるかどうかなんて分からない。

上手く軌道に乗れば、あんなに焦る必要も無かった、なんて思うかもしれない。

絵を描く行為に対する誤解を、自ら解いていかなければならない。

飢えながら導き出された時間、もっと大事にしてみよう。

恐怖の匙加減

2017年 07月08日 18:48 (土)

いつだって怯える心があったから、それを進む力に変えられた気がする。

荒んだ心境にあって苦しみから解放されたいと願う気持ちこそが厳かな線へと追いやり、正解へと導いていた。

不安を逃がせば同じ失敗を繰り返す。

耐え難い不安に苛まれる間に限り繋がる次なる飛躍への糸口を見失いたくない。

曖昧な線を繰り返して、際限無く続くと見込まれるであろう失敗を受け入れる為に余力を分散させるなんて間違っている。

滞りの畏怖を技術に還元する。

不都合な立場は、大いに利用できる。

ただ、恐れる心が逆効果に作用する場合もある。

間違いを恐れる心が壁になる。

怯えて隔てるから、いつまでも身を置けず、怯え続けることになる。

もう恐れなくていい、怯えなくていい。

そんな気持ちで失う好機もあって、源を同じとする力の側面を否定する行為は有益な効果さえも遠ざけてしまう場合がある。

だからきっと人は行ったり来たりして、力の所在を確かめるのだろう。

依りすがっては裏切られ、突き放されては有り難みを取り戻す。

怯える心が正解を遠ざけて追いやられる諦めの立場は正解では無いのだろうか。

怯える力自体が正しいわけじゃない。

蓄積させる恐怖の匙加減こそが肝要。

生かさず殺さず、長持ちさせる道具が痛み続けるみたいに、思い通りの結果を導くために用いられる手段として選ばなければならない。

言葉とは、そうやって使う。

薬品の調合みたいに、比率を調整して結果を操作する裁量が試されている。

依りきらず、一助に留めるべきだ。

幅広く適用できる技術は少なくない。

力に呑まれて、すがれなくなってはいけない。

試みの場所

2017年 07月03日 04:53 (月)

好きで読んでいる漫画は物語が進むにつれて、作者の画力も上達している。

描きながらでないと、どこが良くてどこが悪いかを判断できる局面すら授かれない。

不自然な形になっていないか、歪んだ線になっていないかとか、ほんの僅か過去の教訓にも支えられて、少しでも良く見せる工夫を施しているのだろう。

必要なものを現地で調達するみたいに、必要な時になって補われるべき技術もある。

本番に備えるのは大事だけど、本番に身を置いて足りないものを補う機転はもっと大事。

本番とは時に練習台として扱ってもよく、本番という大一番の限られた猶予に囚われて、試みるという行為を殆どの場合、忘れてしまっている。

描きたい絵の為に再現すべき形があって、今はまだ何もできなくても、そこで初めて挑戦の対象として形を整え始めることができる。

今できないことをできるようにする、辞書で言葉の意味を調べるように一定の時間を費やし、限られた猶予の緊張感が僅かに画力の向上を後押ししてくれるなら、本番を遠ざける理由なんてそんなに無い。

どの形の再現に取り組むか、電柱とか電線とか、階段とか縁石とか、樹木とか街灯とか、手に入れたい手段はまだまだたくさんあって、まるで物語の登場人物みたいに役者を選び揃えていく。

その時その時の挑戦の対象を選んで、焦らず取り組めるようになるのはいつだろう?

予め済ませた下積みに支えられて、思い描いた絵を描き写せるようになるのはいつだろう?

今は筆さえ手に取れずにいる。

挑戦の対象から、先に済ませておくべき他の何かを遠ざけて分断できずにいるから、先に進めない。

今こうして文章を綴ることが、きっとその何かに当てはまるから、絵を描く度に蓄積される情報の言語化を、並行して行えるようにならなければならない。

足並みのばらつきが、上手く歩みを進められないようにしているなら、先ずはこの調子を整えよう。

描きたい絵が見つからない、一本の線さえろくに引き通せやしない、置き去りにした心の所在を確かめ、やり残したことを済ませにいくんだ。

言葉で呪縛を解かないと画力が解放されないなんて、いかにも言い訳がましくて自惚れた口実ではあるけど、こっちの方が面白そうだし、試してみる価値もあるから、停滞に苛立ってばかりいないで、独自の楽しみ方を噛み締めなきゃ勿体無い。

周りに流されず、自分の戦い方を通せるようになるために、先ずは戦ってみよう。

消失点について

2017年 07月02日 14:01 (日)

大きなビルのような建物は、上から見下ろしても下から見上げても奥行きは狭まって見える。

際限無く延びていく高さは無いけど、ビルを見上げて屋上から途切れた先は、見えない線の延長が交わる消失点となる。

地上の物体と目線の高さ、正面を見据えたり左右振り返ったり、奥行きの延長線が狭まりながら地平線に交わる点を探り出せばいい。

目線自体が自分の身長に由来する高さから定められているから、対象物と地平線の位置関係に注意して、自分より高いものを見上げる、小さいものを見下ろす当たり前の関係も、遠近法に基づく構図、理屈に合った決まりごとを遵守するための頼もしい根拠になる。

100m先の地点を見据えるとき、陸上競技のトラックみたいに一人分の枠で左右に引かれた線があるなら、その間の幅は今自分が見下ろす幅も100m先も実際には変わらないはず。

奥行きの無い平面上に奥行きを再現するには消えゆくように狭めなければいけないし、逆に消えゆく程に狭まった奥行きであろうと実際の幅は同じでなければならない。

消失点まで延びた線は途中で切り払ってしまえば物体の奥行きを任意に再現できるし、そこから決められた角度の線を延ばせば地平線に交わる消失点に到達することになる。

遠近感を再現する為に間引いて仮設される線の伸縮は見ていて不自然でない構図の存在を示唆する概念であり、延ばして切って、必要な長さに調整して落ち着かせる裁量から、まるで包丁で食材を捌くような手順に従って行われる。

適切な遠近感を導き出す消失点の概念は何年も前から本で読んで、その存在だけは記憶に留めていたけど、数多くある技術の一つに過ぎないと思って拘り過ぎないようにしていた。

ある日、そんな一部に過ぎないと思っていた概念が本当は幅広く適用できる全ての類いに思えて、絵に対する恐怖とか不安とか、途方もなくて億劫な気持ちも、何もかも根底から覆せてしまうような希望の可能性に出会えた。

力を注ぐべき対象が見つかると、こうまで淀み無く捗らせるものなのか、滞り無く済ませられる状態がこんなにも当たり前でなかったなんて、今の未熟で頑なな自分に裏切られて信用できなくなって、今のままの自分ではいられなくなって、いつどんな場所でも変わらないものこそ信じられるようになった。

心置き無くという程ではないけれど、変に拘ることも奇をてらうこともなく、肩の力を抜いたような単調な備えで、取り組めるようになった気がする。

目に見えていたって分かっていなかったことがあるのだから、功を焦り今のままの自分で無理を通そうとすれば、不相応の摩擦は先ず免れない。

継続は力なりというけど、長い間通り過ぎ去ってしまった故に克服し難い本能があり、その失敗の傾向が本当の姿を導き出す決定的な助力となる。

形骸化された当たり前を取り戻すことが目的となるなら絵を描くことがその為の手段となるだろうか、幾多の道も同じ幅で交わるのかもしれない。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。