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絵を描くこと・10

2017年 06月21日 14:31 (水)

特別なことがしたいわけじゃない。

できて当たり前のことを、当たり前に済ませたいだけ。

誇らなくて済む。

貶さなくて済む。

自惚れなくて済む。

なのに余計な足枷が外せない。

無理をしないで、基本を守る行為の結果として、群を抜いて際立つ何かを特別と呼ぶ。

独り善がりな苦しみなんて要らない。

ただ中途半端なだけなんだ。

徹しきれていない。

このままではいけない。

重荷を解かなければ。

少しでも軽くしなければ。

そういうことが必要。

本質的に共通した行為。

歩けば歩くほど不利になるような状態を避ける。

難しく考えない。

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絵を描くこと・9

2017年 06月20日 08:01 (火)

猶予を今一度に限らせてはいけない理由。

二度、三度確かめて傾向の信憑性を得る。

最初の一度では、それが不変の傾向であるかどうかを見極められない。

結果として間違いだったとしても、絵は一度きりの猶予で描きたいと思う。

一度きりならば注げる、早く短く済むから取り組める。

狭められた猶予は時に有利な手段を奪い去る。

間違いを避けようとする心境自体が壁を作る。

どうして間違わずに済ませたいと思うのだろう。

間違いを想定できないくらい正解を目指しているからか。

一つの正しい技術を身につける為に多くの間違いが避けて通れないなんて、まるで間違いを必要としているかのようだ。

間違い自体が必要なわけじゃなく、間違いを経由すること、迂回できないこと、心苦しさ、拙さと向き合う勇気、避け続け、水増しされた価値、その割に合わなさを克服すること、そういった過程こそが上達に欠かせない正解の形。

とにかく修正の土台となる基準を設けなければ、改善のきっかけさえ掴めないのだから、間違いを恐れるのではなく、自ら間違いを求めて、通り過ぎて、手に入れてしまえばいいのだ。

金縛りのような余計な緊張が解けて、改善に伴う速やかな所作が繰り返されるようになれば、失敗を恐れる理由なんてどこにも無い。

失敗もこの世に確かにある一つの結果なのだから、何をどう調整して制御すれば望ましい結果に導けるのか、一度きりの猶予で確かめられる情報なんてたかが知れている。

傾向を探って、間違った道を避けて、狭く正しい道に追いやられる成り行きが、道を違えるということ。

残された道が僅かにしか無いなら好都合、他にあてどもなく歩き続けるくらいなら、あるがままの流れに身を委ねて試みよう。

最後に正解を決めるのは、自分の意思では無いかもしれない。

認めざるを得ない答えだから、心置き無く信用することができる。

限り無い選択の自由が、不自由を被らせているのだろう。

絵を描くこと・8

2017年 06月18日 20:51 (日)

細部であれ輪郭であれ、自身は対象を見て白紙に描き写す媒介となる。

絵を描く技術に対する自分の誤解を解く行為が楽しいから、描きたい絵も見つからず、絵を描くことさえろくに取り組めないと思い込みたい。

絵の技術を高めるというのは時間のかかる行為だと思っていた。

見た印象をそのまま描き写す転写と代謝のバランスを整えれば、細部に拘り過ぎなければ、ある程度まとまった部分は直ぐに描き写せる。

時間のかかる行為だと思えば実際には時間のかからない行為だとしても繋がらなくて、その時差の違いが長く絵を描く行為を隔ててしまっていたような気がした。

細部は細部で葉っぱの一枚から、まるで一枚の絵を描くような意気込みで、つまりは葉っぱ一枚を描けばいいという意気込みで取り組まないと続かなくて、あとこれを何回繰り返さなきゃいけないなんて今は考えたくもない。

描きたい絵が無いわけではなく、単に絵を描く技術が乏しくて、備わらなくて、導かれなくて、自分でも気づかない内に時期尚早だと後回しにしていたに過ぎなかったのだろう。

それっぽい口実を立てれば楽になって平静を保てるし、そうした一時凌ぎに何度も支えられてきたのは事実だけど、際限無く免れても行き過ぎれば反って自分の立場を追い詰め、苦しめることになってしまう。

絵を見くびりながら、買い被りながら、過大評価も過小評価もして、誤解を解き認識を改めながら、絵を描く行為の範囲を少しずつ解放すること自体が、自分にとっての絵を描く行為になる。

難しいという認識を改めるにはちょっとした勇気が要るというか、些かの躊躇いのような心境にあって、自分の当初からの憧れとか、大事にしていた価値観を自ら捨て去るような、そんな思い切りが必要なのだと思わせる何かがあった。

始めた根拠を否定すれば続ける動機すら見失いそうで恐くて、でもこれが本当の意味で自分が身を置くべき立場なのだと、前に進む為の手段なのだという確かな予感がある。

こうやって独り善がりに苦しみを募らせないことで前に進む力に変えられるなら、何も柵を残さないで飛躍できるなら、心を奪われる価値観さえ制御して再現できないと、気持ちを行ったり来たりさせないと、気後れしたまま身動きが取れずに、憧れから先へと進めなくなってしまう。

見くびって上手くいかないから許せない惨めさで引き上げられる高さがある。

憧れの価値観を制御し、克服してしまったら、当初の価値観は二度と取り戻せないのだろうか。

継続の動機はどう変遷するのだろう。

憧れとか悔しさとか、そういう観念に突き動かされて保たれている強靭な精神性は人体の脆弱性に類似する。

長く短い人生が些細な動機に奪われるように占められるのか、だから何に人生の時間を奪われるべきか、自ら選ぶ必要がある。

どの道を選んでも後悔するなら、薄々その可能性に気づけて取り組めないとしたら、脆弱な身の丈の献身、生涯を捧げる儚さを顧みずに先に進むことなんてできるのだろうか。

やっぱり軽く見たり大袈裟に考えたりしている。

右往左往行き来しながら、状況の変化と、報われる情報を確かめて着実に、時に飛躍的に歩みを進めればいい。

こうして滞って考えを深めても、それ以上に時間は経過しないのだから、必要な時間を割いたと思って、今できないことを無理に前倒しに取り組む必要は無い。

今状況を変えようとせずに、待つことで状況の変化を呼び込めたとしても、それはその時に今状況を変えたことにはならない。

時の経過の後ろ楯を蔑ろにして、同じ失敗を繰り返してしまうならば、完成の糸口は掴めないかもしれない。

達成に導く力の正体を突き止め、自由に発揮できるよう制御する為に、技術の向上は繰り返し取り組まれるのかもしれない。

見失ったまま放置すべきではない、支えの類いがあるのだろう。

絵を描くこと・7

2017年 06月17日 17:19 (土)

後先考えずに、人の心に残せるような絵を描きたいと思ってはみても、なかなかそう上手くはいかない。

時間の少なさからストレスは拭いきれないし、もっと時間がとれていたらと思うと、残された僅かな時間を大事に活かそうとする有り難みすら忘れて悪戯に心身を摩耗させてしまう。

もう二度と味わいたくないと思った苦しみさえ、当初のそんな気持ちを蔑ろにして似たような苦境に身を置いてしまうことがある。

今度はもっと上手くやれると思ったのか、当事者の立場は傍観者の立場では知り得ないと思ったのか、苦しみの立場の、束の間の楽しそうな部分しか目に写らなくて、切り離せなくなって初めて後悔する。

映画や漫画のシーンみたいに、人の意欲を掻き立てるような仕草に目を奪われると、傷つき失う痛みとか、生活の手間とか汚れとか、耐え難い長い時間の経過とか、そんな肝心な苦しみを度外視してしまうから、いざ当事者の立場にあって戸惑い、挫け易くなる。

物語では正確な時間の流れを伴う肝心な痛みは伝えられないし、伝えられたくもない。

綺麗な部分だけを切り取った汚れ無き一時だから、憧れるようになる。

本当の立場を知って近づけるようになると、寧ろ安心する。

本当に伴わせるべき痛みなのだろうか。

こうじゃないといけないと思って、わざわざ自分から引き寄せているような気がする。

独り善がりで言い訳がましくて、もっと楽に済ませる道があったかもしれない。

求めていたものと違っていたら、今度こそは、とまた同じ失敗を繰り返してしまいそうだ。

苦しい時間の中にも当初憧れたような大事な一時があると思うから、思い通りにいかない不満でその一時を見逃してしまうのは勿体無い。

綺麗所だけ切り離したような大事な一時の感性を拾い損ねていた事実が継続の習慣を遠ざけるならば、何かに取り組み没頭できる有り難みというのがいかに技術の向上に貢献するか、出鼻を挫かれるストレスでいつまでも見失っているわけにはいかない。

人もそうだけど、見え方次第なんだと思う。

ただ取り組めば滞り無く捗るわけでもなく、心構えというか、解釈というか、同じものを見ていても、全く異なる印象を抱く場合があるから、不都合な状況に対する認識を改めなければ全く先に進めなくてもおかしくない気がする。

こうやって納得できないことを言い訳っぽく言葉でこじ開けると、絵に対する気持ちも解放されて、画力や技術的な向上以前に、簡単に済ませられるはずなのに今まで億劫で取り組めなかったことに着手できる傾向が、技術の向上自体に対する認識の誤りに気づかせてくれる。

人の肉体は脆弱で、揺り動かされ易い精神は言語による緻密な調整を余儀なくされる為に、ほんの僅かな歪みさえも継続の採算を損なう動機付けとなって、悪くもないはずの合理的な判断に帰結させる。

諦めたり、後回しにしたりして一時的に避難する判断自体は正しくても、際限無く状況が滞れば、その判断の正しさが歩行を妨げる強固な壁となる。

挫かれ易くていつまでも着手に至らないくらいなら、多少の重荷を背負ったって意識を傾け、注がなければならない対象があるはず。

誰とも知らぬ競争者との遅れは気になっても、それくらいで被る程度のオリジナルなら譲ってしまえばいい。

時間が無い中、時間をかけて、忙しなく時計の針を進めれば、いつか済ませておいて良かったと思える修正の土台が、目の前に、足下に築かれているはずに違いない。

別に確証なんて要らない。

疑う余地があったって信じられる天秤の不均衡が、挑戦する取り組みの面白い所だと思うから。

これくらいで、丁度いい。

絵を描くこと・6

2017年 06月13日 14:12 (火)

自分の描きたい絵って何だろう?

描きたい絵が全く無いわけじゃない。

どうしても描きたい絵があるわけでもない。

描きたいと思える絵は技術の向上に導いてくれる。

描きたい絵を描く為に技術を向上させるのではなく、技術を向上させる為に描きたいと思える絵が存在するのだろうか。

上達のきっかけに過ぎないのだろうか。

描きたいと思える絵から当初の輝きを失って、技術の向上に利用され、関心の対象が絵から技術に移り変わり、まるで活力を吸いとられるように逆流して、目的は手段となる。

技術の習得は時間のかかる行為だと思いがちだけど、そもそも技術は作業を滞らせない為の、捗らせる為の助力であって、今まで引けなかった線を嘘みたいに間延びさせる。

描きたい絵なんか今は無くてもいい、技に導かれ、引き延ばされて辿り着ける場所を見てみたい。

見て覚えて忘れない内に描き写す媒介となり、すぐさま思うがままに再現できる汎用性こそ、今に養うべき技術なのかもしれない。