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基礎

2017年 04月23日 15:41 (日)

短距離の走り方を減量に取り入れてみたいけど、どうにも股関節が回らない。

上体の重みが真下にのしかかって、関節の隙間が埋められているみたいに骨盤周りの動きが鈍い。

短距離ならではの勢いを走りに乗せられれば、逆に消耗を軽減して長く速く走れそうなものなのに。

そこで思い出したのが中学時代に所属していた陸上部の基礎練で、一定の距離でしっかり膝を上げながら小刻みに走り進める、あの動きの繰り返しが今になって必要になった。

昔は当たり前のようにできていたことが今は取り組むことさえ億劫で、思えば当時から何が大事でやってるのかよく分からないまま適当にこなしていた。

自分にとって基礎っていうのは、もっと手前にあってほしくて一番奥にあり、奥で拾って手前に配置する傾向にある。

色々試してみて今必要に思える基礎がそこにあるから、もっと早く済ませるべきだったとしても先に取り組めるとは限らないのだと思う。

こうやって何かを試したいと思う前向きな気持ちは継続に欠かせない要素で、反面日常の退屈で生き甲斐を失い、陰鬱な余生を強いられる苦痛を紛らわす為に取り組めているのではないかとも考えてしまう。

薄々予感はしていたけどこうして続けられる習慣があるのはブログという場で誰かが見ていてくれていると思うから続けられるのであって、自分なりの工夫で見つけだしたコツのおかげ云々よりも、極端にいってしまえば何もかもブログの性質や読み手の方のおかげで、それがなかったら自分で考えるコツの在り方なんて継続に寄与しない脆弱な絵空事みたいなものかもしれない。

決して悲観しているわけではないのだけど、自分の継続の拠り所となっているものを見誤りたくない、覆い隠して見失いたくないから、今こうして残しておく必要がある。

誰かが見ていてくれなかったら委ねられない負担がある、空想の第三者なんて意識するだけで消耗を促しそうだから、このやり方が確かに習慣化の礎で、自分の力だなんて思い込んで本質的な支えを蔑ろにするべきではない。

偽りを放置したまま続けてしまえば、いつか目標を達成した時に浮かれて忘れてしまいそうな事態を危惧して、本当に自分の支えになって独自の段階に適当な手段を導き出してくれたものが何なのかを第一に伝えられるように、習慣化の根っこを今のうちに抑えておかなければならない。

こういうのは割とすぐに見破られてしまうものだと思うし、自分にもできないことを人に強要する事態は自分にとっても望ましくない。
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工夫

2017年 04月22日 11:03 (土)

以前は稀に走る時間を見つけて走ろうとすると、習慣化が望めない代わりに何か一つでもいいから有利に走れるような発見を持ち帰ろうとしていた。

籠に重荷を乗せた自転車を操作するイメージもその一つで、左右のブレを抑え行き場を失った遠心力が推進力に変わり、その制御が維持できている間に限りまともに走れるのだと言い聞かせた。

速く走り進める推進力の実現に長い距離は要らない、短い距離だからこそ専念して速く走れる姿勢を維持できる、著しい消耗を強いられ長くは速く走れない、この僅かな時間を少しでも間延びさせることができたならと考えていた。

独楽の紐を引っ張って回転に要する力を伝えるみたいに腕や脚の筋伸縮を捉え、振り幅のズレを生じさせないように緻密に制御し、人の手足の長さに見合った小刻みな鍛練の繰り返しが欠かせないのだと思った。

自転車のタイヤに蓄えられた空気みたいに、同じ力を何度も使い回せる貧乏性が性に合っていて、パンクした自転車を修理しないで空気を補いながら進むのは一時凌ぎの手段とはいえ煩わしく、お金や食べ物も同じかもしれないなんて考え方もした。

海外の短距離選手の中には体幹が縦に波打っているような、テレビで稀に見かける二足走りの蜥蜴みたいな走り方に似ていて、或いは風船の内側に含まれた水が乱回転して暴走するような、そんな真っ直ぐとした姿勢に拘らないような走り方もあるんだと思ったけど、長距離の走り方に活かせるかどうかは未だに分からない。

最近は初めから余計な負荷が伴うようになって、少し体が重く感じてゆっくりめにペースを落としてしまいたくなるけど、そうすると足への衝撃が前に受け流しづらくなって歩幅も狭まり速度を落としてゴールが遠くに感じられ、体を蝕む時間も長引いてしまう重苦しさがある。

そんな事態を避けるように足元の景色が滑るみたく過ぎ去るくらいの受け流し方で下半身の負荷を抑え、歩幅も速度も適度に保って短い時間に専念して終われるような、短期的な動機を刷り込ませる走り方を意識してみた。

体重があるせいだと思いたいけど走る姿勢を維持できるのは一周が限度で、一周しか走れないからこそその短さに専念し、少ない時間で大きな効果を得られる走り方を模索したいと思えた。

速く走れたって長くはもたない後ろめたさがあったけど、調整したり減量したりして少しでも間延びさせて、自分の言い訳の正しさによって後で自分に言い訳できなくなる辻褄を呼び寄せることが着実な改善の手立てになる。

工夫を凝らして飽きさせない、変わらない味や環境を実現する老舗のように、人である自分の弱さに素直になって、使えるものは使って限られた手段も運用する。

長続きしないような良質な営みを長引かせる為に、不都合な状態を長引かせない思い切りの良さが工夫の在り方として常に要求されている?

でも結局は基本に立ち返り、当たり前のことを当たり前に済ませることが、質の実現に欠かせない要領なのかもしれない。

動機

2017年 04月18日 21:56 (火)

ダイエットの効果は数字には表れなくても少し前よりお腹がへこんで気持ちうっすらしたような変化が見られれば、習慣化の兆しとしてはまぁ上出来かなということにする。

慣れてきた所で働きながらでも続けられるように余計な課題を省いて時間を短縮し、少ない時間でも効果を確認できるように調整する必要がある。

400mを半周走っただけで息切れしてしまうのは好都合で、よく使う筋力が疲労で当てにできなくなると、普段は使わないような筋力を使わざるを得なくなる。

特に上体の姿勢を維持する筋力がダイエットの要に思えて、これがしっかりしてないとまさに重荷を籠に乗せて運転する自転車の操作の如く、上体の復帰に余計な体力を消耗して走る姿勢を維持できなくなる。

上体の維持を意識すれば走るのは400mを2~3周程度で良く、歩き方も効果的な要領を残して一つに統合し、何周も歩く必要は無い。

上体の姿勢維持によるくびれ付近の負荷に専念して、走ることを主体に歩くことは補助の意味合いで活用すべきだと判断する。

そうすれば一日に45分程度割いていた減量にも20分以内に収められるくらいには短縮でき、効果も損なうこと無く仕事しながらでもこなしやすくなる。

勤務する職場が変わって、夕方から深夜の時間帯の勤務になる予定なので、出勤前に走れば勤務時間帯の半日分は休憩感覚で流せるかもしれない。

以前の職場に勤めていた時は減量の習慣なんて見込めなかったし、出勤時間が消耗の始まりで、運動する余裕なんて心理的に生じ得なかった。

それは追々確かめるとして、運動するとしばらく食欲が抑えられる働きがあるのは、余計な復帰の手間を煩わしく思って飲食を控えるだけでなく、まだ減量の効果が物足りなくて、空腹の微かな痛みに体を馴染ませるような習慣的な運動が続いているとも考えられる。

何はともあれ日常生活でも続いている事実が習慣化らしさを帯びて、一日で劇的な効果を出す必要は無い、みんなで一つの荷物を持ち運ぶように、何ヵ月でも何年でもかけて痛み分けしながら量を減らしていけばいいと思えるようになる。

食生活の改善についても、乳酸菌カルピスとか効果に確信の持てない商品にも盲信するし、脂肪を燃焼させる唐辛子と野菜も取れる国産のキムチを備えて、少しでも楽に痩せられる手段の検討に心の暇がない。

歩いている時も走っている時も、以前だったら部屋でくつろぎ常に横たわって体重を預けている自分は重力に乏しい月の住人であり、地球上で意識を失えば体重を支えることもできずに崩落する体を、無理矢理地べたに押しつけようとする重力に抗って進む力に変えている。

気温も体重も減量に欠かせない遵守すべき条件であり、一歩ずつ前に踏みしめる一つ一つの行いが、決して取るに足らない一歩ではない一つ一つの完成品を送り出している。

重さと高さがあるからこそ落ちる力を進む力に変えられて、そうやって楽に利用できる力の由来に委ねられるからこそ負担を緩和し、劣化を抑えて長引かせることができる。

それが継続と習慣化の所以となり、重さがあるからこそ行える減量の手段というのは、すべからく次第に使えなくなる手段の辻褄として解釈する必要がある。

今しかできない、今だけやればいいという短期的な動機に支えられて実現に導くべき結果の形、即ち目標を掲げて達成する行為には、長く続けることといつかは終わらせることの均衡を保つ折り合いが欠かせないということになる。

否定

2017年 04月15日 03:52 (土)

やらなきゃいけないことがたくさんあるのに、そのほんの一部に過ぎない細部を突き詰めることさえ思うように捗らなくて、前向きでいようとしてもどこか浮き足立っている。

何もかもが嫌になったり、我ながら呆れ果てて空しくなったり、そうやって自分自身を心の底から否定すると、反って容易く揺るがされることの無い強固な芯が築かれるような気がした。

甘い見積りが捨て去るべき自分なら喜んで捨てよう、結局は焦りすぎているだけなのだから、完成の形がまるで見えてこなくても、特に無関係な細部を構築している間に限り忘れられる進捗がどれほど大事だって言うんだ。

漠然とした完成の形を追いかける道が途方も無く嫌になる気持ちは確かでも、ほんの数ミリから数センチの細部を敷き詰める行為が、両極端の関係にあって億劫な気持ちを相殺し、なけなしの意欲を繋ぎ止めてくれる。

そう、このくらいが丁度いい。

少し滞ったくらいで脆く崩れ落ちるような動機付けでいいからこそ、繋ぎ止められる。

約束された継続じゃなくて、いつ終わってしまってもおかしくない儚さがあるから、しがみついていられる。

本当に大事な何かが、蔑ろにしてはいけない基本が、何に厳しくなればいいか、余計なものは削ぎ落とされて、唯一無二の答えが後に残される。

今の自分を否定すること。

支えを活かすために。

何も無くなった自分。

何もかも諦めた虚脱感。

それこそが必要。

常にそう在りたい。

厳かでいられるから。

諦めて余った力。

均等に分散された力を集めて、集中して注げる対象が見つかるはず。

心の底から諦める力を。

腐心せよ。

2017年 04月11日 15:40 (火)

絵を描く技術を高めたいとは言ったものの、具体的にどんな絵が描きたいのかは自分でもよく分かっていない。

昔はやりたいことすらできないで、いつか自由に時間を取れるようになったら、この取り組みに従事するんだって思ったはず。

大学の図書館で、勉強してる内容とはまるで異なる分野の美術に関する映像を見ながら、漠然とした未来を思い浮かべて、そう心に決めていた。

この絵が描きたいという具体的な対象が全く無いわけではないのだけど、絵を完成させたいと思う気持ちの傍ら、その対象というのが絵の技術を高めるきっかけとして利用されているような奇縁も感じられることがある。

この道に人生を捧げる決断が躊躇われる心境においては、絵を描くことが本当に自分の人生を費やすに値する行為なのかを確かめたいが為に、普段は億劫に思える不慣れな絵描きに取り組める、そんな動機さえもあった。

純粋に絵が描きたいってだけじゃない、培う為、確かめる為の手段として絵を描くという行為を利用する場合がある。

今、本当に描きたい絵が無くなってきているけど、考えようによってはいい傾向として捉えられる。

この世には様々な形があって、意味や目的があったり、あるがままの自然の姿だったり、その必然的な形の有り様を無差別に受け入れたいと思ったからこそ、怯えなくて済むようになった。

ひとつずつ身に付けた集大成をいつか構築することができたら、それが思い描いた完成の形になるのかもしれない。

再現者の憂いという概念があり、知る人ぞ知るものを作るべきなのか、誰にでも分かるものを作るべきなのか、本物と紛い物が交錯して真偽が覆い隠されるようでは、技の真価を伝えられたことにはならない気がする。

公に理解されるものを作りたい、本物なら誰にでも通用するものであってほしい、だから本当に差別してはいけないのは見る者の視点、人を選ぶような作品の作り方はしたくない。

いつも慣れと不慣れを繋ぐ媒介が欲しいと思っていたし、道の途方もなさなんて歩み出せば嫌でも直ぐに分かってしまうから、道を閉ざすことなく誰にでも歩み通せる明るく照らされた道でなければならない。

上達とは誰かの心を置き去りにする行為、延いては未熟な自分の心を置き去りにする行為、ほんの僅かな間に人の心を奪うことはできても、そこに誰かを導くことはとても難しくなる。

言葉によって施され、言葉によって解かれる呪縛のようなもので、脆弱な身の丈による献身を蔑ろにされたくないと思う心が、双方の間を隔てる溝を深めずにはいられない。

どこにでもあって絶えることの無い小競り合いが、この世のあらゆる煩わしさを解消する為の鍵だったりする。

話し合いの趣はそこにあって、補われるべき客観的な事実も踏まえないで過激な言動に身を委ねることがいかにやるせないか、人同士の争いに終止符を打てたら何を敵とするのだろう。

ようやく、この道を選べそうな気がする。